[コラム] 脱暴力を呼びかける第21回「寄り添ってくれる人の存在」
──「男のための脱暴力グループ」水野阿修羅
いい子になるか反抗するか
「寄り添う」ってどういうことだろうか?「子どものためと思い、厳しくしつけをしました」という親がよくいる。「甘やかしたら、子どものためにならない」という親もいる。一方で、何でも子どものいうことを聞くのが「愛情」だと思っている親もいる。いずれにしても「寄り添う」とは大違いだろう。
日本人は愛情表現が下手だ。「厳しく接すること」と「甘やかすこと」のいずれも大切なことだと思う。片方しかない、というのが問題なのであろう。甘えさせてもらえなかった子も、叱られなかった子も大人になってから大変だ。
小さい頃、甘えさせてもらえなかった子は、いい子になるか、とことん反抗するかに分かれる。いい子になった子はわがままを言わない。いい子をして褒められると「わがまま」という自己主張する訓練の場を奪われる。
百万人ともいわれる「引きこもり」の若者の多くが、子どもの頃、いい子だったという。子どもが自己主張し始めた時、「わがままをいうな」とおさえつけるのが昔の日本の子育ての主流だった。しかし社会全体が貧困な時代は、子どもは自己主張しないと何も獲得できない時代であり、子どもも要求が多かった。あれを食べたい、これが欲しい。しかし手に入れられない。こういう体験をした人は、「早く大人になって、金をかせいで、自分の欲しい物を手に入れよう」思った。
魚ではなく釣り方を
時代が変わって、社会が豊かになると、愛情を、物を与えることでしか表現できない親に育てられた子は、物はどんどんもらえるので、物がほしいという欲求が減り、自己主張する必要がなくなる。そういう子が、思春期になって親離れしようとしても、自分が何をしたいのか見つけられずいると、自己主張できない。受験列車のレールに乗っているうちは良いが、失敗した時や、社会に出た時に、打たれ弱く、失敗にくじけやすい。傷つきやすい。具体的な自己実現の欲求も少ない。抽象的な「自立」しか知らない。そこで自分の部屋に「引きこもる」ようになる。自分の部屋のない子や、生活の苦しい家庭では始まらない。
物を与えすぎると、自発心や欲求が育ちにくい。「子どもには魚より、魚の釣り方を教えるべきだ」という言葉もある。
小さな失敗を積み重ねて、大きな失敗を回避できるようになるのに、少ない失敗もしないように先回りして親が介入すると、失敗に弱い子になる。
「寄り添う」「見守る」というのは、失敗させないことでなく、失敗した時のフォローの仕方を教えることだと思う。
「大丈夫だよ、失敗しても、見守ってるからね」と。「教訓を生かして次にそなえよう」と、「みんな失敗しながら大人になった」と。
逆に責めることで失敗をくりかえさないようにしようとする人は、子どもを萎縮させる。
厳しくする、というのは怒鳴ることや責めることではない。ヨチヨチ歩きの子を、手を出したくなるのをちょっとひかえて、見守ることだ。失敗したら抱きしめて、「大丈夫」と言うことだ。
子どもの頃、甘えを許されなかった子は、怒りっぽくなる。誰でもいいからやさしく愛された記憶のない子は、人にやさしくなりにくい。