[海外] パレスチナ/イスラエル・アラブ諸国という「壁」の中で苦闘してきたアラファト
──一一月六日 ウリ・アヴネリ (グッシュ・シャローム)翻訳/脇浜義明
アラファトが永眠した時、何処で埋葬されようとも(訳注…国を持たない国家元首の国葬はカイロで行われ、その遺体はラマラに葬られることとなった)、いつの日か、自由パレスチナ政府の手によって、彼の遺体がエルサレムの聖地に再埋葬される日がきっと来るだろう。
ヤセル・アラファトは、第二次大戦後現れた偉大な指導者の一人である。指導者の肖像は、業績だけで決まるものではない。克服すべき圧倒的な困難に立ち向かう姿勢も指導者資質を決定する大きな要素であろう。この意味で、アラファトに並ぶ者は世界にいない。
一九五〇年代末、彼が歴史の舞台に登場した時、彼の民族は世界史から忘れ去られる寸前だった。パレスチナという名称は地図から消され、イスラエル・エジプト・ヨルダンがパレスチナを分け合っていた。世界は、「パレスチナという民族的実体はない」「アメリカ・インディアンと同様に消え去った」と決めつけていた。
アラブ世界では、「パレスチナの大義」は一応口にはされていた。しかしそれは、アラブ諸国の間を蹴られて行き来するボールのようなもので、各国は「パレスチナの大義」を自国の利益のために利用するだけだった。パレスチナ人が自主的に何かをしようものなら、アラブ諸国政権は苛酷に弾圧した。
当時、ヤセル・アラファトが「パレスチナ人解放運動」(ファタハ)を創設した時、彼が意図したのは、先ず何よりも「アラブ諸国政権からの解放」で、パレスチナ人が自らの意志と判断で語り、行動できるようにすることだった。これが、アラファトが生涯で行った「三つの大変革」のうちの第一のものであった。
危険な変革であった。ファタハには自分の基地がなく、アラブ諸国の領土内で迫害を受けながら活動しなければならなかった。
この時期にアラファトの特徴的な性格が形成されたように思える。彼はアラブ諸国の権力者たちの間を泳ぎわたり、彼らをうまく操作したり、お互いに張り合わせたり、策略を用いたり、半分の真実を交えた曖昧な喋り方をしたり、罠や障害を見抜いてそれを回避しなければならなかった。そういう経験のおかげで、彼は世界一の老獪な操作者となった。まだ虚弱だったパレスチナ解放運動を救うためには、そうせざるをえなかったのだ。