[情報] 映画評/モーターサイクル・ダイアリーズ
作品データ
「モーターサイクルダイアリーズ」
(2004年/英=米合作映画)
監督:ウォルター・サレス
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ、ミア・マエストロ他
人を隔てる壁や国境を越える体験
─精神の変容と、映画の制度的限界についての論考─
学生の頃から憧れつづけていて、今でも座右に彼の日記がある。「チェ・ゲバラ」が二三歳の時、おんぼろバイクのノートン、「ポテローザ」号に乗って、南米のアルゼンチンからアマゾンを下り、ベネズエラに至る一万qの大冒険=『チェ・ゲバラの南米旅行記』を素材にした、この世にも美しいロードムービーは、私達に伝説のオリジンを見せてくれる。それとともに、映画が物語る事を拒否し、制度の限界を写し撮ろうとする、アンビィバレンツ(矛盾する二つのもの)な危険性をも内在した映画でもある。
「アイデンティティ」などという、言い古された言葉ではなく、自分が何処から来て、何処に行こうとしているのか、そして何より自分が何者なのか?若きゲバラことエルネストは、この旅で「少なくとも、もう昔の僕ではなくなった」と語るに至る現場を私達は体験する。
偶像化されたゲバラだが、この映画の彼は、ぜん息持ちなのに、煙草は離さず、陽気で情熱的な女好き、ダンスが下手でマンボとタンゴの区別がつかない等身大の人物、そして人間を身分や人種で区別するのを何より嫌う人間として描かれている。
「真の革命は、愛という偉大な感情によって導かれる」と唱える後年のゲバラの精神のメタモルフォーゼ(変身)を、南米の苛酷だが美しい風景の中でモンタージュし、旅する途中で出会う数々の虐げられた人々との生の交流の中で、「何があろうと闘う」「人々のために」という精神の変容を、私達も目撃する事になる。
「本でしか知らない」という南米大陸探検の旅は、アルゼンチンからスタートし、パタゴニア、アンデス山脈を越え、チリの海岸線からアタカマ砂漠を通って、クスコからマチュピチュ遺跡、そしてリマへ到達する。
まさに南米を南下運動するこの旅は、若き二つの魂の遍歴の軌跡なのだが、旅の最終目標地点であるリマの南米最大のハンセン病施設での体験は、後年の彼の生き方を考える上で、「原点」とでも言うべき出来事だろう。
ここは、アマゾン川をはさんで患者と医師達を完全に隔離しているが、彼等二人は、規則である手袋の着用も無視し、患者と直に接し、その痛みを自分の悲しみとする。
エルネストの二四歳の誕生日を祝ってくれた夜、彼は真っ暗なアマゾン川を泳いで患者達の元へ渡ろうとする。自分がどちら側の人間なのかを自覚し、彼の中で何かがはじけた瞬間に観客も立ち会ってしまう。映画監督ウォルターサレスの投企した、この映画のクライマックスだ。
最初、私達観客の視線は、「こちら側」から、「闇の向う」の世界を見ている。しかし、エルネストが暗いアマゾンを渡る姿を見ているうちに、私達の視線も又、エルネストと同じ目線で向こう側の患者達を見ている事に気づく。その川の水と泪で濡れた瞳でエルネストと一緒に最後まで渡りきり、作家の予想を越えた所で、エルネストと一緒にハンセン病患者に抱かれる。何と言う美しいシーンだろうか。
この場面は、エイゼンシュティンのオデッサの階段とともに、私達の脳裏に焼きつく名シーンであり、その美しさを理解しない人は、いつ迄もこっち側から見た世界しか理解しようとしない、第三世界の人々を自分達の下僕にしか思わない大国主義の側の人間なのだろう。
「この長い旅の間に何かが起きた…」
映画のラスト。エルネストは一緒に旅したアルベルトに、「これは偉業の物語ではなく、同じ大志と夢をもった二つの人生が、しばし併走した物語である。そして、少なくとも、もう昔の僕ではなくなっていた」と語る。
そして、飛行場での別れの場面。「分からない、分からないんだ、この長い旅の間に何かが起きた。その答えを見つけたいんだ。…ひどい世の中だ」。
そしてそれを見送るアルベルトの横顔。エルネストを乗せた飛行機を追ったカメラがパンダウンすると、実際の八〇歳のアルベルト本人の横顔へと場面はモンタージュされ、その飛行機をずっと見送っていた。
映画が物語る事を放棄する事により、私達は虐げられた人々と同じ目線で、人と人とを隔てる全ての壁や国境を越える事をこのロードムービーは体験させてくれる。彼等がこの旅で感じたあらゆる感情を、私達もいつ迄も感じていたい。
享年三九歳、ボリビアで散った彼の美しい魂の変容に触れ、エンドロールが終わっても、しばらく席を立てなかった。(木下達也)