[投書] 言わせて聞いて1194号
──●東拘・和光晴生
四年半続いた「接見禁止」一部解除
このたびは、私から「接見禁止」大幅解除について、お知らせする以前に、もう東拘宛て直送で一〇月五日号を御送付いただき、感謝の念を抱くとともに、恐縮している次第です。
東京地裁が、一〇月四日付けで、私に対する「接見禁止」を、一七名の方々を除いては解除する、との決定を出しました。一七名の方々とは、旧「日本赤軍」関係者、あるいは事件関係者とみなされた方々、及びこれまでの関連裁判に証人として出廷された方々などです。それ以外のすべての方々とは、面会・通信・書籍やパンフ等のやりとりなどが許可されることとなりました。二〇〇〇年三月一七日にアラブから強制連行されてきて以来、実に四年半を経ての解除決定です。その間、私の裁判は六〇回もの公判を経て、一一月二四日には検察側の論告・求刑が予定されるに至っています。
つまり、求刑の直前になってようやく、接見禁止の大幅解除がなされた、ということです。かつて丸岡修さんは、三年八ヶ月の間、接見禁止とされていました。それよりも更に嫌がらせと精神的拷問である接見禁止の期間がエスカレートしているということになります。私と併行する形で裁判闘争を闘っている西川純さんは、九七年にボリビアから連行されてきて以来、やはり接見禁止下に置かれたまま、七年目に入っています。
検察側は、「罪証隠滅」の恐れを理由にあげていますが、私が起訴されている「ハーグ」及び「クアラルンプール」の外国大使館占拠・獄中同志奪還闘争は、もう三〇年も前の事件です。今更、隠滅できるようなものはありません。
日本の検察は「自供・自白」に偏重した立件を慣例化させ、捜査の手抜きをやってきました。その分、捜査費や調査活動費は裏金の財源にされていたということが、この一、二年の間に全国の警察や検察の不祥事として、どんどんバレてきています。だからこそ、黙秘や否認を貫く被疑者・被告人に対しては、腹いせの嫌がらせとして接見禁止を多発・乱用することになってきたのです。
これでは憲法が保障する黙秘権が無視され、被疑者・被告人の防御権が否定され、公正な裁判が期待されないこととなります。
私の弁護団は初公判以来、これまで何度も何度も、「接見禁止の解除」を要求してきました。高裁への抗告も行い、門前払い同様に却下されたりもしました。弁護側反証が終わり、あとは求刑という段階で、ようやく大幅解除となったのです。
この30年で一番自由な活動条件
検察側は、かつて丸岡さんや浴田由紀子さんに対し、無期懲役を求刑しました。浴田さんへの論告では、刑法にない「終身刑」を意味するような「終生、施設に」というような言辞まで付け加えられていました。私に対しても、同様の長期刑を求刑してくるものと思われます。
私は、「逮捕・監禁・殺人未遂」罪で起訴されたことに対して、私自身が二つの闘争に関わっていたことと、その中で主導的な役割を担っていたことを認めた上で、「殺人未遂」については「確定的殺意」にせよ「未必の故意」にせよ、一切否定するという方針で裁判を闘ってきました。「下手な否認をして、支援者の方々に倫理的な負担をかけたくない」と思ったことと、「国家権力・体制支配者に対し、その不正を糾弾する闘いを展開する以上、自らに後ろ暗いところがあってはならない」と考えたことによります。これまで、私たち旧「新左翼」をはじめ、旧ソ連邦、東欧諸国などの「二〇世紀型社会主義勢力」は「革命と戦争の時代」という時代認識のもと、「敵が不正なことをやっているのだから、こちらも何でもありだ」というような闘い方をしてきたところがあり、「社会的正当性の実現」ということを、自ら軽視する結果を生んできました。私は、そのような在り方の超克を、自分自身の裁判闘争の中からも目指していこうと思ったのです。
私は二六年以上アラブの地にいたのですが、国際手配を受けていた立場上、そしてまた、旧「日本赤軍」を脱退したことを明らかにしないとの約束を結んでいたこともあって、国内との通信や人的なコンタクトを絶ってきました。自らに接見禁止を課し、政治的にも、組織的にも、社会的にも「死んでいた」のです。
今、接見禁止が大幅解除となって、拘置所当局の制限・監視下にあるとはいえ、多くの方々との面談や通信が可能となったことで、この三〇年で一番自由な活動条件を得た形となっています。そしてまた、私自身、裁判闘争を自分の頭で考え、全知全能を振り絞って闘ってきました。まさに自己回復のプロセスとしてとらえています。
一審判決後に、控訴審を闘うことになっても、刑の確定から服役まで、あと一年もないと思われます。刑務所は、私にとっての新たな持ち場となります。元気に闘い続けます。皆さんの活動の発展を願っています。健闘を。健康を。