[コラム] 脱暴力を呼びかける20「寄り添ってくれる人」の存在
──「男のための脱暴力グループ」 水野阿修羅
弱い人への苛立ち
前回、暴力の被害を受けた時、「腹が立つけどやり返せないから、もっと弱い者にあたる」というBのタイプを紹介した。私はそのタイプではないようなことを書いたが、実はそのタイプでもあるとも思っている。何気ないことで、妻や子どもに荒っぽい言葉を投げつけている自分は、何なのだろう。仕事で、要領が悪い人に対してイライラしてる自分は何だろうか、と思う。
「男らしさ」に縛られていた時は、弱い人を見るとイライラした。「何でそんなにペコペコするんや」「何ですぐ謝るんや」と思い、キツクあたることがあった。
よく考えてみると、闘えるようになった自分が、闘えない人への怒りを感じていたのだが、闘うだけの力(パワー)をつけていない人への怒りは、「弱い者いじめ」の一種ではないだろうか。
実際にも、「ペコペコするな」とか「すぐに謝るな」と怒鳴っていた自分を思い出す。この気持は今もあまり変わらないが、今では怒鳴ったりはしなくなった。
「モンスター」というアメリカ映画がある。私はその映画を見た時、涙が止まらなかった。今でも思い出すと、涙ぐんでしまう。小さい頃からずっと暴力の被害者だった主人公は、女だが、男みたいな態度をとり、ケンカしまくっている。どこにいっても「鼻つまみ者」(こんな表現はよくないと思うのだが、今の私には他に適当な表現が見当たらない)扱いされる。彼女は、結婚も失敗。子どもも施設に入れられる。何の技術も、資格も、文字も持たない彼女は、売春でしか生きていけない。そこでも男たちから受ける蔑視・差別に対し、怒鳴りまくり傷だらけになる彼女を見てると、私はただ涙するしかなかった。かつて、弱い人、生きるのが下手な人に対して感じたようなイライラは、彼女に対して出てこなかった。
「トラウマ」が大きすぎて
こんなにも涙する自分に驚いたが、泣けなかった頃、私は「愛する」という言葉に、まったく実感がなかった。「好き」とは違うなー、というぐらいの感覚しかなかった。子どもに対しても、冷めた目で見ていて、いつも連れあいから「冷たい」と言われた。
「モンスター」を見ていると、私の住んでいる釜ヶ崎で、メチャメチャな人生をおくっている何人もの人たちの姿が重なってくる。一見すると、弱い者いじめをしてる人も、実は、すごい「トラウマ」を抱えていて、その「トラウマ」が大き過ぎて、うまく扱えずハチャメチャになっているんだろうな、と感じられた。
「男らしさ」にとらわれていた頃、私は「弱い者いじめをするな」と言っていた自分が、弱い人をどこかで嫌っていて、強い人たちに共感していた。
虐待を受けた人が全て加害者になるわけではない。
『魂の殺人』(新曜社刊)を書いたアリス・ミラーは、虐待を受けても、加害者になる人とならない人の違いは、「誰か一人でもその被害者に、寄り添ってくれる人がいたかどうかの違いだ」といっている。
「モンスター」を見た時、「誰も彼女に寄り添ってくれる人がいなかったんだなあ…」と私は実感した。私が涙した理由でもある。
栃木の子ども二人の殺人の加害者も被害者の親も、寄り添ってくれる人がいなかったことが、お互いの不幸をより悪化させたのではないだろうか。
「モンスター」の主人公も「栃木の子殺しの男」も当人たちにとっては、「何でこうなってしまったんだろう」と思いが強いのではないだろうか。(つづく)