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更新日:2004/10/10(日)

[コラム] 渡辺雄三自伝・最終回

「唐」はなぜ日本を独立国として承認したのか

私はかねがね、日本の古代国家成立に関する学説に疑問を持っていました。それは、日本が大化改新によって成立した新政権の承認を求めて、遣唐使として小野妹子を派遣しましたが、唐は承認にあたって、従来のように冊封関係(封建的な主従関係)を求めず、独立国家として承認したことでした。

中国の歴代王朝は、周辺国が国交を求めると、冊封関係を条件にするのが常でした。日本の歴史学者は、唐が冊封関係を求めなかったことを、唐を取り巻いていた国際関係から説明していましたが、どうも靴底の裏から足の痒い所を掻いているようなもので、私は納得できませんでした。

それは、大化改新後の新政権が仏教を国家の宗教としたことにあった、と私は推測しています。その中心人物こそ、天皇の面前で蘇我馬子を切り殺し、大化改新の幕を開けた藤原鎌足です。

唐は朝鮮半島征服にあたって、新羅と組んで百済を滅ぼしています。新羅王朝は仏教を信仰していましたが、百済王朝が信仰していたのは道教でした。

道教は中国在来の宗教で、宗教というよりも、今風に言うと十干一二支説で将来を予測する占いの類でした。これに対して仏教は、唯一の絶対者である仏陀を信仰する一神教で、経典・仏像・伽藍を備えた総合的な宗教でした。

中国全土を征服した唐王朝が、一神教で壮大な伽藍建造物を備えた仏教を国家の宗教としたのは、当然でした。これを周辺国にまで広めようとして、朝鮮半島で唐は仏教を信仰していた新羅と組んで道教の百済を滅ぼします。

日本の大和でも、百済系渡来人と新羅渡来人との間の勢力争いが激しく、歴代天皇の代替わりはこの二つの勢力の交代でした。こんなことを続けていれば、日本も朝鮮諸国の二の舞になります。目先の対立にこだわらず、この状況を回避したいと考えていたのが、中臣(後に藤原)鎌足でした。

鎌足自身、新羅系の渡来人ですが、日本における渡来人同士の抗争を繰り返していれば唐に征服されることを恐れ、彼は「大化の改新」というクーデタに立ち上がります。その彼が何故大仏建立に最後までこだわったのか、判りませんでしたが、ここに来てその理由が見えてきました。

大仏建立は日本全土を疲弊のどん底に突き落としましたが、彼はこれを最後までやり遂げます。これによって、日本という国家が唐と対等に付き合うに足る国家であることを、彼は唐王朝に納得させようとした、と私は見ています。

大仏建立の記念行事は、正倉院御物から見て大変盛大な行事でしたが、招かれた人も朝鮮・唐からのみならず、ダッタン人(中央アジアの遊牧民)やペルシャ人もいました。この痕跡は、東大寺二月堂の「お水取り」の行事に今なお残っています。

寺院は当時、単なる宗教施設ではありませんでした。法隆寺の遺物を拝観していた時、文書に「官寺」という判が押してありました。これは、法隆寺が今風の表現で言うと、官吏養成所、言い換えると東大法学部だったことを示しています。

仏教は日本古代において単なる一宗教でなく、国を治めるための学問でもありました。全国各地の有力者は、こぞって頭のよい子弟を集め、東大寺の僧侶にしようと競っていたに違いありません。

亡命してきた百済王族を受け入れていた藤原鎌足

鎌足の墓が安威山の山頂で発見されましたが、その麓である茨木・高槻で彼に所縁のものが何一つ見つかっていないことを、私は不思議に思っていました。晴れた日を選んで山頂に登って大阪湾の方を見ると、黒いもやがかかった高層ビル群が見えますが、その後ろの上町台地が突き出た先に、かつては赤い四天王寺の伽藍が見えていたはずです。

四天王寺は、朝鮮半島との交易の玄関口だった難波津の港を守護するため、鎌足によって建立されました。子孫の繁栄を何時までも遠くから見守って欲しい、との願いを込めて安威山の頂に彼が葬られた、と私は思いました。

ところが、最近になってテレビで、「三島に鎌足の邸宅があった」と報じられました。三島といえば、今の高槻です。場所は鎌足一三代の子孫、石川利足の墓碑が出土した真岡だった、と私は推測しています。

この現地見学会に私も参加しましたが、墓碑が出土した場所には大きな平らな石が置かれており、そこで祭祀が行われていたことは明らかでした。周辺を掘れば、祭祀の遺物が見つかるはずです。

晩年、彼がここに邸宅を構えたのには、理由がありました。彼は唐に滅ぼされた百済の王族の亡命を受け入れたので、彼らを監視する必要があったからだ、と私は推測しています。

高槻と淀川を挟んだ対岸の枚方が、百済王族の亡命地でした。この地は今でも「禁野」と呼ばれ、天皇直轄地でした。ここには百済王神社があり、機織神社、天の川など、七夕に所縁の名が今なお残っています。七夕という行事は、道教の信仰の一つです。

ここを対岸から監視するため兵を置いたので、彼もそこに邸宅を建て、随時使っていたのではないでしょうか。当時の海岸線は国道一七一号線の辺りで、邸宅の敷地はそこまで伸びていて、真岡まで柵を巡らしていたはずです。(終)

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