[コラム] 渡辺雄三自伝第16回
「東欧社会主義体制の崩壊」で喪失した正当性
九〇年代に入って、大変衝撃的な事件が起こりました。ヨーロッパにおける「社会主義体制の崩壊」です。東ベルリンの壁の崩壊、難民の西ヨーロッパへの大量流出、東西ドイツの統一等々。だが、東アジアでは未だに「冷戦体制」が存続しており、これに寄生して醜悪極まるキム・ジョンイル独裁体制が残存しています。
私にとって最も深刻だったのは、冷戦体制の崩壊によって、これまでの私の理論的正当性が喪失したことでした。それで、さまざまな出版物を捜し求めましたが、最も頼りになったのは、平田清明著『経済学と歴史認識』(岩波書店)でした。
マルクス『資本論 三』(岩波文庫版)四五五nには、第一巻の結語として、次のように書かれています。
「資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有方式は、したがって資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定をもたらす。それは否定の否定である。この否定は私有を再興するものではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、協同と土地及び労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする、個別的所有を作り出す。
いうまでもなく、個人の自己労働に基づく分散的私有の資本主義的私有への転化は、事実上既に社会的生産経営に立脚する資本主義的私有への転化に比すれば、比較にならないほど長く、過酷で、困難な過程である。前のばあいには、少数の簒奪者による民衆の収奪が行われたのであるが、後のばあいには、民衆による少数の簒奪者の収奪が行われるのである」 これを解説していたらきりがないので止めますが、「個別的」とは、原文でindividualであり、フランス革命によって生まれた「分割地所有」を指すと見なされていました。しかし、この言葉は平田さんの指摘の通り、「全体的(total)」に対立する言葉である「個体的」と訳すべきです。マルクスは人類の歴史を貫く基本的矛盾を、「個体性」と「全体性」との矛盾と捉えているからです。
「個人的」と「個体的」、一字の違いですが、読み手にとっては大きな違いです。「個人的所有」といえば、フランス革命によって生まれた「分割地所有」を連想するのが当然の流れですが、「個体的所有」と言われれば、その対立概念である「全体的所有」を想起し、人類史全体を貫く「個体性」と「全体性」との対立と捉えることになります。
一字の翻訳の違いが、とんでもない誤解を生み出すことになります。そこには翻訳者のマルクス主義の理解の程度が試されています。 資本論第一巻結語の部分の正確な意味が、この本を読んで初めて判りました。この中に出てくる「個体的所有」とは、人類史を貫く全体と個体との矛盾の展開、この矛盾を非和解的な段階にまで高めてしまった資本主義、この歴史的な壁を突破するための闘いが持っている歴史的任務とは何か、その回答がここに書かれていました。
今まで何べんもこのくだりを読みながら、漫然と読んでいた自分に気付き、新たな勇気が湧いてきました。
その後、田畑稔さんが『マルクスとアソシエーション』(新泉社)を出し、運動と理論との間に掛け橋を作られ、ここにきて、私も未来に自信を取り戻すことができました。
グローバリズムへの対抗軸としての「マオイズム」(毛沢東思想)
私は、「もしマオイズム(毛沢東思想)が無かったら、今日の日本は無かった、と考えています。そしてまた、この現代でも「マオイズムはグローバリズムに対する有効な対抗軸だ」と考えています。
一二年前、私は、サミール・アミンをパリの自宅に訪ねました。仕事を終え、お茶を飲んでいた時でした。国民経済建設に話が及んだ時、彼はこう言いました。
「国民経済建設とは、それぞれの国で、農業と工業との循環を作り出すことです」。これがマオイズムの核心です。
八〇年代初め、彼は『マオイズムの未来』(第三書館)を出していますが、彼はこの本を書くにあたって北京を訪問し、関係者に直接取材しています。彼はこの訪問で、五ヵ年計画作成にあたって中国共産党内で対立があったこと、何を巡っての対立であったのか、彼らから直接取材し、確認していました。
対立軸は「五ヵ年計画策定に当って、労働者階級と農民階級との間に所得格差をつけるのかどうか」、を巡ってでした。社会主義経済建設を巡ってソ連で行われたこの論争は「原始的蓄積論争」と呼ばれ、世界的に注目を浴びました。
それゆえ、この論争は既にソ連で行われており、中国の論争はその二番煎じにすぎませんでした。