[コラム] 渡辺雄三自伝第13回
「職務給」受け入れた労組執行部 風当たりも強まり退職を決意
組夫の労働現場の状態を組合の報告書にありのまま書いたところ、大きな反響がありました。これは労働関係の全国誌『調査と資料』にも転載されました。
組合員の中にも、「劣悪な組夫の労働条件を放置しておくと、自分達の領域が侵食されるのではないか」、との恐れが高まり、六二年春闘で前進させることができました。
六三年春闘で調査部長Tが取り上げた課題は、「監視断続業務の規制」でした。監視断続業務とは、八時間労働制を定めた労働基準法の中で、その例外措置として八時間を越える労働を許された業務でした。
例えば、安全灯の管理・受け渡し業務がそうでした。坑内にもこれに類する業務に対して、監視断続業務が許されていました。
労働現場の聞き取り調査をしてデータを集め、資料で裏付けし、労働時間の短縮を求めたので、監視断続業務の範囲は大幅に縮小されました。
この間、Tが取り組んだ課題に、職場闘争の成果を正式に労資協定の形で確定させることがありました。職場闘争で勝ち取った成果は、その時々の起こった特殊な条件の下で発生したものであり、既成事実ではありましたが、他の職場に対して無条件の適用とはなりませんでした。
それを、春闘の賃金交渉の場で、協定書に書き込ませることによって、彼は「労資協定化」しようとしました。これは全ての職場闘争の成果に適用されたわけではありませんが、職場闘争の成果を確定させ、それを一般化する上で、一定の前進がありました。
六四年、Tは書記長となり、Hが新任の調査部長となりました。この春闘で、会社は「職務給制度」を提案してきました。
「職務給制度」とは、この当時、電機・鉄鉱など主要産業で導入されていた制度です。「同一労働同一賃金」の原則を廃止し、賃金査定の権利を労働者から奪い、資本家の基準で思想差別する、労働者の奴隷化を目指した賃金制度でした。
既に労組執行部は、この会社案受け入れで固まっており、私は、Hの力だけではいかんともし難い情勢を感じ取っていました。また、陰に陽に私に対する風当たりが強くなっていくのを感じていました。
それで、私は組合の教宣資料に、職務給反対の解説を一問一答の形で書き上げ、退職する決意を固めました。この解説は、全国誌の『労働旬報』に転載されました。
私の運命を変えた「中ソ対立」の公然化
この当時、私に無関係のところで、私の運命を変える、とんでもない事件が進行していました。それは「中ソ分裂」の公然化でした。
六三年一一月、堀江さんから突然電話が掛かってきました。「札幌で会いたい」と言われたので、指定された場所に行ったところ、堀江さんのほか、道炭労講師団の人たちが来ていました。
道炭労講師団とは、道炭労が編成していた学習会講師団で、道炭労は各支部へ定期的に彼らを派遣し、学習会を開いていました。それで、彼らと私とは既知の間柄でした。
そこで堀江さんが話したことは、五八年と六〇年に二回開かれた国際共産党会議の詳しい報告でした。私もマスコミ報道で漠然とは知っていましたが、詳しい中身を聞いたのは初めてでした。会議後に、簡単なコミニュケが発表されたに過ぎず、詳細は分からなかったのです。六〇年の会議では、中ソ両党間で原則的な問題を巡って、激しい論争が行われ、第三者の仲介などでは解決できないほどの深刻な事態に陥っていることを、私は初めて知りました。
堀江さんが、日本共産党中央政治局の中ソ対立に関する立場、として私達に話した内容は、「ヴェトナム抗米戦争勝利のため、中ソ両党に和解を求める」、という「調停派」としての立場でした。
私は、「中ソ両党間の関係がそんな曖昧なことで対応できるものでなく、国際共産主義運動上の原則的な対立だから、各国で起こっている状況を見て、中ソ両党の対立が日本共産党の分裂を招くだろう。その結果、個々の党員にいずれを取るのか、党は選択を迫ってくるはずだ」、と考えました。(つづく)