[コラム] 脱暴力を呼びかける第14回/「怒り」を奪われ去勢される若者たち
自民党の方針で抑圧された「怒り」の感情
若者の「ひきこもり」が、自民党内でも大きな問題として論議されはじめた。「少子化社会」と言われ始め、子供が減少する中で、「労働者」にならない若者が、「一〇〇万人」(五〇万人との説もあるが)もいることに、自民党が危機感をもち始めている。しかし若者が「ひきこもり」になるのは、ある意味、自民党の政策の当然の結果といえるだろう。
「六〇年安保」や「ベトナム反戦」「全共闘」といった風に、若者が熱かった時代、彼らは正義に燃えて行動に参加した。これに手こずった自民党政府はいろいろ考えた。「怒れる若者」という言葉に表されるように、「怒り」=「ホット」と考えた人たちは、若者にホットなことは「カッコワルイ」こと、という文化を流布させる。「感情」をストレートに出さないことが、「都会的」「スマート」と奨励された。
音楽の世界では「ユーミン」に代表される「ニューミュージック」が、政治離れをうながし、テレビでは「たけし」がホットな人間やマジメな人間を「笑いの対象」としていじめまくった。
子どもたちはテレビを通じて、「怒り」の感情を表すことは「カッコ悪い」ことだ、と学んでいった。
怒りを封じられ「引きこもり」や弱い者いじめに
しかし、「怒り」を表さないことは、怒りの感情がなくなった、というわけではない。社会の不正に向けて怒りを表すことも「ダサイ」こととされると、真面目な子や正義感の強い子が、笑いやいじめの対象となった。強者に向かえない「怒り」は、弱者にふり向けられる。
いじめられた側も、それに抗議することは「カッコ悪い」「ダサイ」とされ、笑ってうけ流すよう求められた。それに耐えられない子は、よけいにいじめられ、自殺が急増した。
八〇年代に子ども時代を過ごした多くの人が、「感情」を表さないことを学習した。社会問題では唯一、「環境問題」だけが新しい課題として、「ダサイ」というレッテルを貼られずにすんだため、多くの市民運動が生まれ、若者の参加も多かった。ニューミュージック系の人間も多く参加したため、逆に「環境運動に参加しないと遅れてる」といった風潮さえ生み出した。しかしここでも、資本や保守にどんどん取り込まれつつある。
一方で、社会や政治にストレートに怒りを表明する運動──反戦や労働問題は「ダサイ」とされ、若者が参加しなくなった。
自民党政権と資本は、若者の怒りのエネルギーを仕事に向けさせようとした。「二四時間戦えますか」というコマーシャルはその代表で、ネクタイにスーツのサラリーマンを登場させ、「産業戦士」に仕立て上げた。
しかし、バブルが崩壊してみると、「過労死」という戦死者や、「リストラ」による自殺者など、大量の「戦死者」を生んだことが明らかになった。
こうした親の世代の「大量戦死者」を見た若者は、「負けた者」が「笑い者」になる現代日本文化の中で、負けるとわかったら、外に出ていけない体質になってしまった。そうなると、もう「ひきこもる」しかない。
怒りを強者に向けられない人の中には、外国人やフェミニスト・子供などへの攻撃に、エネルギーを費やす人が出てくる。「イラク人質事件」では、これをもろに見せつけられた。怒りを向ける相手を間違えているのだ。(つづく)