[コラム] 渡辺雄三自伝第11回
就職先は日本の賃金相場を決定していた太平洋炭坑労組
釧路へ行ってすぐ、大変なところに放り込まれたことが分かりました。太平洋炭鉱労組は並みの労組ではありませんでした。日本の賃金相場を実質的に決めていたのです。私はここに来て、初めてそのことを知りました。
私を採用してくれた労組委員長は岡田利春さんで、後に土井さんと同期で国会議員となり、社会党副委員長まで務めています。当時の書記長は松橋茂さんで、後に総評常任幹事になりました。
太平洋炭鉱の石炭は、主に首都圏に電力を供給していた「東京芝浦火力発電所」に納入されていました。その理由は、そこの釜(ボイラー)に太平洋炭鉱の炭質が最も適していたからだ、と聞いています。
それで、太平洋炭鉱労組がストライキに入れば、国鉄への電力供給が止まり、山手線がストップすることになります。これが、「炭労・国労アベック春闘」の中身でした。
北海道の中央部に広がる炭層は、褶曲が酷く、機械化に不向きでした。これに反して、釧路の炭層は高さ一・八bと一bの炭層が重なり、海岸から四、五`の地点に炭層が露出していて、そこから三〜五度の傾斜で海底へ潜っており、機械化には絶好の自然条件を備えていました。
私は、坑内に初めて入った時、採炭・掘進現場の機械化に驚きました。米国製・ドイツ製の最新の掘削機械が入っており、狭い坑内を、大きな電動運搬車が太いコードを引きずりながら、猛スピードで走っていました。 当時は外貨が逼迫していたので、こんな高価な機械を良く輸入できたものだ、と聞いて見たら、「MSA資金で買った」、との答えが返ってきました。
「MSA資金」とは、朝鮮戦争で米軍が日本で軍需物資を調達した際、日本に支払われる外貨を政府が積み立て、国策遂行のために使われていたものです。太平洋炭鉱は民間企業ではありましたが、政府資金が入った国策企業でした。
それで、当時の太平洋の鉱員一人当り出炭量は、三池の三倍はあった、と記憶しています。当然、坑内労働者の年齢は若く、若い労働者は殆ど高卒でした。当時、「請負給」が一般的でしたが、既に太平洋炭鉱では「時間給」に移行していました。
採炭能率が上がれば、請負給では支払賃金総額が急速に増えていくので、会社にとっても時間給の方が得だったからでした。請負給だと年配者の意見が重視されますが、ここでは職場で若い者の意見が良く通るようになっていました。
それゆえ、労働者の考え方も、古い因習に囚われず合理的で、私と彼らとの間で議論しても、違和感はありませんでした。
春闘の季節になると、労組事務所内は、独特の雰囲気に包まれました。太平洋炭鉱が「重点スト」に指名されると、東京芝浦発電所の貯炭量が見る見る減っていきます。
その数字が労組事務所に表示され、執行委員の間では「いつ国労がストに入るのか」「政府の中労委への調停申請は何時になるのか」「調停は何時出るのか」、そんな話題で持ちきりでした。
そこには、「日本の賃金相場を決定しているのは俺達だ」、との自負に溢れていました。(つづく)