[コラム] 渡辺雄三自伝第10回
ソ連が「労農派」支持へ 突然の転換に動転
五六年、大学を卒業したものの、それまで何の勉強もしていない自分に気付きました。それで「マルクス経済学を本格的に勉強しよう」と、立大大学院に行くことにしました。
当時の立大には、当時マルクス経済学の第一人者と言われた宮川実が教授で、助教授が山本二三丸という新進気鋭の学者が揃っていたからでした。しかし、入学してみると、聞いていたのとは大違いでした。
宮川と山本との対立は、学説の違いを超えて、感情的な憎悪にまで発展し、どうしようもない状況に陥っていました。私は山本教授の講義を取りました。
講義は、マルクスがゾルゲに宛てた手紙の中に、価値法則について書いたものがありますが、一年間かけてその手紙を読むというものでした。
「大学院とは自分で勉強する所であって、人から教わろうとする所ではない」と思い始めていた頃、私にとって大変ショッキングなニュースが飛び込んできました。
日本のマルクス主義学会は、社会党系の「労農派」と共産党系の「講座派」とに分かれていましたが、日本資本主義についてマルクス主義の大本山であったソ連は、いうまでもなく「半封建制説」の講座派支持でした。それが「資本主義制説」を取る労農派支持に転換した、というのです。
早速、ソ連の東洋学研究所の所報を取り寄せ、ロシア語をかじっていた私は、それを自分の目で確認しました。これは中ソ論争の成り行きからすれば当然の話ですが、当時その事を知らなかった私は動転しました。
「半封建説」の井上晴丸さんほか、何人かの学者を訪ね、ソ連の突然の転向について聞いて見ましたが、満足のいく回答は得られませんでした。そんな中で私に声を掛けて来たのが堀江正規さんでした。
鉄鋼労連のアルバイトから太平洋炭坑労組の書記に
堀江さんは、東京新聞社記者のレッド・パージ組の一人でした。五三年から五四年にかけて、岩波書店から二〇巻にも及ぶ『日本資本主義講座』が出版されましたが、彼はその編集責任者でした。
これは北京駐在の日本共産党指導部が書いた「新綱領」の解説書で、当時の共産党系研究者を総動員して作られたものでした。
五七年八月、彼から鉄鉱労連にアルバイトに行くよう言われ、行って見たら、私の机の横にいたのが不破哲でした。
鉄鉱労連本部には、当時賃金論で有名な永野さんがいました。彼は戦前からの活動家として知られた人で、当時は鶴のように痩せていました。賃金論で名の通った千葉利雄という書記がいて、書記局は多士済済でした。
五九年、ある日突然、堀江さんから彼の自宅に呼び出されました。私の目の前に座っていたのは、高野実・元総評事務局長でした。
間もなく堀江さんから電話があって、「釧路の太平洋炭鉱労組の書記になれ」と言われました。高野実さんを社会党幹部とばかり思っていた私は、「共産党員が、何故社会党のダラ幹の言う通りにしなければならないのか 」と不満でしたが、とりあえず就職口が見つかったので、行くことにしました。
後になって、中国共産党指導部が、日本共産党幹部を説得して高野さんを入党させたことを聞いて、彼に対する中国共産党指導部の信頼の厚さには驚きましたが、当時の私には知る由もありませんでした。
他人は、私のことを「『高野学校』生だった」と言いますが、私にはそんな自覚はありません。元々、「高野学校」とは、左翼学生を労組書記局へ入れるために彼がしたことを指して、世間がそう呼んだに過ぎない、と私は見ています。
実際に「高野学校」を取り仕切っていたのは堀江さんでした。中ソ対立が激しくなるにつれ、高野さんは親中派に傾斜していくし、堀江さんは調停派になるし、二人の政治的関係は疎遠になっていきました。
その後、人民新聞に、長年高野さんの秘書をしていた高島さんが協力され、彼から労資協調へ傾いていった労働運動の実体について大変教えられました。 (つづく)