[コラム] 脱暴力を呼びかける第13回/水野阿修羅
殺人や暴力がはびこるアメリカの現実
『暴力から逃れるための一五章』(ギャヴィン・ディーリベッカー著/新潮社、一九九九年)という本に、次のような一節がある。
《地球上のいかなる国の人権侵害にも、きわめて迅速に対応する国でありながら、この文明国アメリカの殺人発生率は、ほかの西欧諸国に比べて一〇倍も高い。この文明国アメリカの国民は、女性や幼い子どもをどこの国よりも頻繁に殺している。…(中略)》
《オクラホマ連邦ビルの爆弾事件では、現場から運び出される幾体もの死体が映し出され、週の終わりには、犠牲者の中に一九人の子どもが含まれていた、というショッキングな事実もわかった。だがその同じ週に、両親の手で殺された子どもの数は七〇人で、しかもそれは、ほとんど毎週変わらない数字なのである。また、その多くは五才以下の幼児である。死にいたらない虐待の件数は、昨年一年だけで四百万件。この数は、決して例年に比べて多いわけではない。》
最近、日本でも児童虐待が話題になってきたが、アメリカのこの数字は何を意味しているのだろうか?
ブッシュ大統領やキリスト教保守派は、「中絶」を「殺人」とみなして、中絶禁止に積極的だが、児童虐待や、銃による殺人をどう見てるのだろう。中絶反対派の中には、中絶を実施する医者を「殺す」と脅し、実際に一六人も殺している。これは「テロ」ではないのだろうか。連邦ビル爆破犯も「中絶反対」だったと聞く。
権力の有無で変わる「暴力」の性格
支配者は、被支配者に「暴力はよくない」と教育する。また、「怒ってはいけない」ともいう。
しかし、抑圧された人びとの怒りは、押さえ込むことが出来ない。そこで、その「怒り」の対象となる「生け贄」が用意される。いつの時代も、支配者にとって目障りな人たちが標的にされる。
権力を持たない人が、怒りのために振るった暴力は「犯罪」とされる。ところが、権力者が「正義」を振りかざし、法の名の元に振う「暴力」は、暴力とは呼ばれない。
しかし、「死刑制度」は国家による「殺人」だし、アメリカによるイラク侵略は、国家による強盗殺人である。アメリカは国際社会の裁判官でもないし、警察でもないのに。
「正義」の名のもとに振るわれる「暴力」は、「必要悪」とみなされ、容認される。
「しつけ」「教育」の名のもとで振るわれる「暴力」が見えにくいのも、多くの国家で行われているからだろう。
自分の個人的な恨みも、「正義」や「教育」の名を騙ると正当化されやすい。
「正義」って何だろう。
キチンとしてるのが好きな人の中には、それを「正しい」と勘違いしている人がいる。好きではないが「そうであらねばならない」、と教育された人も、そうではない状況、ルーズな状態、ちらかっている状態を見た時、「不快感」を感じる。ルーズな状態が好きな人の存在など認められない。「不快感」=「悪」となる。「正義」を笠に着た人は怒りっぽい。しかし本人は「自分は正しい」と思ってるので、「悪いのは相手」だと思っている。
そこに、「力」が加わると、「力で人をコントロールすること」を学習した人は、他人を力でコントロールしようとする。
「怒り」は、大切な感情だ。抑圧された人が怒らなければ、世の中は良くなっていかない。課題は、「怒り」「力」を、プラスに使うことだ、と私は思う。(つづく)