[コラム] 渡辺雄三自伝第7回
大学で「一〇月のレーニン」上映、コミンフォルム機関紙翻訳
秋の学園祭で、かつて私が見たことのあるロシア映画「一〇月のレーニン」の上映を提案したところ、すんなり認められました。ソ連大使館からフィルムと映写機を借り、シナリオの日本語への翻訳も出来、上映は成功裡のうちに終わりました。
私はその後始末に追われていたので、後から聞いて知ったのですが、映画を見て興奮した学生達によって自然発生的なデモとなり、駅前まで「インターナショナル」を歌ってデモが行われました。当時の大学は、そんな雰囲気でした。
都立大学内にコミンフォルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」の翻訳工場がありました。多分、私達がこの機関紙の外国語版を個人的に手に入れて読んでいたのを、近くにいたマル秘の党幹部が、組織的な翻訳を勧めたのではないか、と私は推測しています。
大学内には有利な条件もありました。仏語科の教授・小場瀬卓三はルイ・アラゴン著『レ・コミュニスト』の翻訳者でした。中国語科の教授・竹内好は新中国の紹介者・文芸評論家として有名な人でした。
そんなこともあって、仏語科と中国語科の助手が協力してくれ、党員だけでなく、周辺の学生も参加してくれました。私はこの仕事に直接タッチしませんでしたが、記事を適当な長さに切り、各自が翻訳した文章をつなぎ合わせるというやり方で、試行錯誤はありましたが、結構うまく機能していました。
これで、英国人が書いた文章は英語から翻訳され、フランス人の書いた文章はフランス語から翻訳されたので、重訳を避けることが出来、原文に忠実な翻訳が可能になりました。
三年生時に「細胞キャップ」に「重水製造施設」反対闘争
三年生の時、細胞キャップを務めることになりました。その頃、大学内に原子力開発のために必要な「重水製造施設」を建設する計画があることがわかりました。それで、中目黒駅前でビラを撒くことになりました。
都立大には昼夜の学部がありましたが、どちらの講座も自由に選択でき、昼夜の区別はありませんでした。ビラ撒きの朝、集まったメンバーの顔を見たら、夜間生も含まれていました。家族を抱えた者、親兄弟を養っている者…。しかし私は、彼らに「帰れ」とは言えませんでした。
私はその場で、「私の責任で彼らを守るほかない」と心に決めました。
駅の直ぐそばに目黒警察署があり、ビラ撒きを始めるや、私服が出てきました。私は、ビラ撒きを止めて、引き揚げるよう手で合図をしたので、皆は駅の方に走り出しましたが、私服を牽制している間に、私は拘束されました。
それから、私を逮捕した警察署の方が大変でした。昼前だったと思いますが、突然、二階から警官が一斉に階段を駆け下りる大きな音が鳴り響いたと同時に、学生の叫び声が、署内に響き渡りました。間もなく共産党都議の梅津さんが身元引受人となって、私は保釈となりました。
警察を出る時、梅津さんが私に紙包みを握らせてくれました。後で開けて見ると、中に大福が二個入っていました。万が一のことを考えて、差し入れを用意してくれていたことに感激しました。(つづく)