[コラム] 渡辺雄三自伝第6回
共産党が分裂し、「所感派」へ 父親は警察へ転職
五〇年夏、共産党が非合法化され、北京に日本共産党指導部が創設され、所感派と国際派に党が分裂しました。私達もどちらを選択するのか、踏絵を踏まされました。
一人づつ細胞キャップの前に呼び出され、いずれを選択するのかを問われます。私は迷わず所感派を選択しましたが、全員同じでした。
私は、以前から兄が国際派であることを知っていました。私が国際派に行かなかったのは、兄の活動を見ていて、彼らが「議論倒れ」で、大衆闘争をそっちのけにし、その結果として大衆闘争を疎かにする、という彼らの作風が嫌いだったからです。
党に非合法部門ができ、私は裏(非合法部門)のレポ(文書運搬役)になっていました。親には予備校に通っていることにしていました。
その頃、父は定年退職を前にして逓信省を辞め、こともあろうに国家警察本部関東地方局通信課長になりました。
家に帰って包み紙を探していたら、関東地方の警察電話網の系統図が出てきました。私はしめしめと思い、これを党の地区委員会に持って行きました。
あの当時は、敵も味方も混乱しており、そんな状態でした。何時までも中途半端なことをしているわけにもいかず、五二年春に都立大に入りました。
大学入学早々に「血のメーデー」事件の洗礼
大学に入るや「血のメーデー」に遭遇しました。その日の朝、突然、党本部に召集されました。到着するや有無を言わさず、直ちに釘を打ち込んだ棍棒を持たされ、メーデー会場の二重橋前広場へ連れていかれました。
私達が会場に到着した時、既に目の前の警官隊と対峙しており、労働者の部隊は戦争で鍛えられていたためか、棍棒を横にして既に銃剣術の構えで、始めからやる気満々でした。それで、最初から警察官もビクビクしていました。
警官隊と殴り合っている間に、宮城前の広場に駐車していた自動車が次々にひっくり返され、黒煙が上がりました。警官は捉えられると、次々に堀に投げ込まれ、彼らは泳いで対岸へたどり着き、石垣を這い上がっていくのを、私たちは拍手喝采していました。
私も余裕が出てきたのか、指に痛みを感じたので、見ると右の親指に釘が刺さって血が出ていました。救護班を探して包帯を巻いてもらいました。GHQの周りは銃剣を持った憲兵によって警備されており、彼らは厳しい表情をしていました。
その直後、大学で面白い事件が起こりました。学生課長の机の中から碑文谷警察署の刑事の名刺が出てきました。
大学中が蜂の巣を突付いたような騒ぎになり、学生課長はつるし上げられ、警察署にも抗議に行くやら、大変でした。当時、私は大学に入ったばかりだったので、詳細は分かりませんが、これは、職員細胞と学生細胞との合作でした。(つづく)