[コラム] 定年後もちょっとはましな捨石に
神戸大学・讃岐田訓
私はこの三月、神戸大で定年を迎える。それにしても、国家という細胞に、ウイルス的に潜在して三六年。思わぬ地平に漂着したもんである。
人民新聞が「新左翼」として出発したのが一九六八年。この年の四月、私は母校の神戸大に文部教官助手として就職し、一二月にはすでにバリケードの中にいた。全共闘運動での全学バリケード封鎖闘争に加わったのである。
教育公務員になって、一年にも満たんうちに、大学解体を叫んでいた。その頃、わが国はベトナム戦争に加担して、大儲けをつづけ、公害をばらまきながら、高度経済成長の真っ只中であった。大学の役割は、その侵略と搾取の社会構造を補完する存在であった。
そんなある日、母親と交わした言葉をいまも鮮やかに憶えている。『おかあちゃん、国家公務員、一年もたんかも知れんで』。母親は答えた。『ええやんか、そんなもん。ええ経験した思たら』。おかげで気楽にやれた。
そして翌年八月、日共と権力が野合し、みごとに叩き出された。その翌一九七〇年六月は、七〇年安保粉砕闘争を一応やるにはやったが、「壮大なゼロ」と嘲られ、『ああしんど』という気分であった。思い起こせば、大学に入学するや六〇年安保闘争、京大の大学院に入って日韓闘争、神戸大に舞い戻って全共闘運動と、うまいこと節目々々に出くわしたわけで、まことについていた。連戦連敗ではあったが・・・である。
七〇年一〇月には、「月刊地域闘争」(ロシナンテ社、現、「月刊むすぶ」)が、京都で創刊された。われわれもまた、当時、東大助手で、公害闘争の旗手であった宇井純にたぶらかされて、瀬戸内海汚染総合調査団を立ち上げた。世界では先進工業国の不始末で、環境破壊が大問題になっており、『日本やったら瀬戸内海や。大丈夫なんやろか?』というのがこの運動の出発点となった。おもにバリケードから這い出てきた、京大、阪大、大阪市大、神戸大などの学生、院生、助手が主力になった。
そのころ私は、この大学闘争は所詮、井の中の蛙、コップの中の嵐に過ぎなかったと感じていた。地域に出て、現場に学ばない限り、おのれの網膜には、倒立の虚像しか結ばないことに気づいていた。地域闘争に向かおうとしたわれわれに、当時、まだえらく元気で、地下ゲリラ闘争を主張していた、京大助手であった滝田修に、どえらくののしられたものだ。『おまえら、敵前逃亡するつもりかっ!』。
瀬戸内海全域調査は沿岸一八大学が参加、約一ヵ月かけて行ない、五〇〇ページをはるかに越える報告書を刊行した。これには、当時の瀬戸内海が、いかに無惨に破壊されたかを白日の下にさらした、わが国で最初の貴重な実態報告書となった。
あれから三〇余年。自前の調査データを引っさげ、企業や権力と闘いつづけてきた。
水島三菱石油重油流出事故を、直後からの調査データで糾弾。播磨灘赤潮裁判では、徳島の鳴門に観測実験所をつくり、赤潮発生のメカニズムを明らかにしつつ、大企業群、自治体、国の連合軍とわたりあった。公判は一〇年、九八回に及んだが、われわれは科学論争に勝利し、七億円せしめた。もちろん、これと平行して、松下竜一率いる豊前火力反対闘争を支援し、燧灘トリガイ大量斃死事件を解明、淀川水道水から発ガン性をなくす運動なども展開している。そしていま、神戸空港を撤去させるために全力をふりしぼっている。
振り返ってみれば、地域に出たことで、漁民や地域住民闘争のお手伝いができ、多くを学んだ。四月からは「市民環境センター」的な拠点をつくり、ちょっとはましな捨石になりたいと願っている。