[海外] イラクの一般国民実態レポート
鳥肌の立つ光景
「米兵は電機や水を止めてイラク人を殺すつもりだ」
〇三年六月下旬、初めてイラクに入り、バグダッドのセントラル小児教育病院のがん病棟を訪れた。目や頭の腫れ上がった子ども、鼻血で枕を染めている子ども、血を吐いている子ども、高熱に苦しむ子どもの体に水でぬらした布切れを巻きつけて少しでも冷やそうとしている母親・・・・。病院の玄関で、一人の女性が空になったペットボトルを持って呆然と立っているのに出会った。「子どもに与える水がない。五日前から停電で、家の水道からは一滴の水も出ない(病院も停電、水不足で、患者は水を持参していた)。このままでは暑さで子どもが死んでしまう。水を買うお金なんてどこにもない。一体、どうすればいいの?」と、大粒の涙を流して泣き始めた。バグダッドのある地区の水タンクに「電気と水がほしければ、セキュリティーを確保しろ!」と米軍が書いたのを見た、という話も伝わり、玄関前は騒然となった。「米軍は水や電気を止めてイラク人を殺すつもりだ。早く出ていけ!」入院患者の親たちが目を吊り上げて、怒っていた。怒りがぴりぴりと伝わってきて、鳥肌が立った。
医薬品の搬送
「本当に薬を持ってきたのはあなたたちが初めてだ」
「イラクの人は、水や食べ物・薬がなくて死んでいくんです。寄付金があるなら、そういう人を救うために使ってください」『アラブの子どもとなかよくする会』の協力者のイラク人青年が言った。「劣化ウラン弾の被害者救済」を考えてイラク入りしたものの、具体的に何をするのがよいか決めかねていた。彼の一言で決まった。さっそく病院の医師たちにたずねてみた。口をそろえて「白血病の治療のための薬がほしい」と言う。しかし、イラク国内には抗がん剤や抗生剤など特殊な薬はない。ヨルダンに買い付けに行くことになった。
協力してくれる薬剤師、運搬の手伝いをしてくれる日本人ジャーナリストや旅行者、NGOなどの力を借りながら、約半年の間に、合計四五〇万円ほどの医薬品をアンマンからバグダッドのセントラル小児教育病院とアル・マンスール小児教育病院のがん病棟に運んだ。『アリババ』(盗賊)の心配をしながら、約九〇〇キロの砂漠の道を何度も往復した。「本当に薬を持ってきたのは、あなたたちが初めてだ」「日本人が持ってきてくれる薬なくしては何の治療も出来なかっただろう」と感謝の言葉をもらうこともあった。しかし、病室に行くと「写真を撮って帰るだけだろう?」「今日は何も持ってこないのか?」と、厳しい言葉を投げかけられることもあった。病院に押し寄せる患者の数に対して、私たちが運んだ薬など、まったく「焼け石に水」でしかない。しかし、湾岸戦争以降、医薬品が十分になく、患者が死んでいくのをただ見ているしかなかったイラクの医師たちに、希望を失ってほしくなかった。病気の子どもたちを救えるのは彼らしかいないのだから・・・・その思い一つで、病院に足を運んではリクエストを聞き、日本から寄付金が来るたびに医薬品を購入して届けてきた。
自衛隊派遣
「米軍と同じようにイラク人を殺すの!?」
争の傷はこれだけではない。仕事も家も失って、旧政府の建物に移り住んだ家族、家族を失って孤児院に連れてこられた子ども、病院に行く交通費さえない人・・・・。多くの人に助けを求められたが、私の力ではどうしようもなかった。しかし、多くのイラク人と接して、もっとも大きな問題だと感じたのは、彼らが自分たちの将来に希望をもてずにいることだった。それが「復讐」という負の方向へ向かわせているとも感じた。いつになったら、平和な生活が送れるようになるのか・・・・。そこに自衛隊派遣のニュースが届いた。 私のまわりにいるイラク人たちは皆、派遣に反対だった。「どうして、イラク国民のためになることをしてくれないのか?なぜ、アメリカに追従するのか?」と言っていた。
明日はいよいよバグダッドを離れるという一月一二日、日本の子どもたちから送られた絵や版画、手紙をバグダッドのある女子中・高等学校に届けに行った時のことである。イラク滞在、最後の活動であった。確かちょうど、「自衛隊の先遣隊がクウェートに向けて日本を出発した」という頃であった。
玄関で英語の教師と教頭先生に挨拶しようとした時だった。私が言葉を発する前に彼女たちが矢継ぎ早に質問してきた。「もう来たの、日本の軍隊は?今、どこにいるの?あなたたちのように普通の服を着ているの?武器は?」唐突の質問に圧倒されながら、たぶんクウェートにいること、軍服を着て、武器を持っていることを告げると、「イラクにはこれ以上、武器や兵士はいらないのよ。米軍と同じようにイラク人を殺すの?」と言う。武器は防衛のためであって、イラク人と戦うためのものではないと話したが、彼女たちは「必要なのはエンジニアやカンパニーよ。あなたの仲間が怪我をしないように祈っているわ」とはき捨てるように言った。
そして、「戦争が終わって、早く平和になるといいですね」というメッセージのついた日本の小学生の版画作品を見せると、アラビア語訳を読み上げて、言った。「いつ、終わるって言うの?それなら、なぜ、イラクに軍隊を送ってくるの?日本には平和憲法があって、外国に軍隊を派遣することはできないはずでしょう?五〇年以上、戦争をしなかった国がどうしてイラクにだけは軍隊を送ってよこすの?こんなの言葉だけよ。」
「軍隊」と「平和のメッセージ」
「夢?希望?今のイラクのどこにあるっていうの?」
次に、日本の子どもたちがイラクの子どもたちに送りたい言葉を選んで毛筆で書いた作品を見せた。「夢」「希望」「平和」「未来」などの言葉があった。「夢?希望?そんなもの、今のイラクのどこにあるっていうの?」彼女たちの言葉は容赦がなかった。
日本人の多くは、イラクやアラブの国のことをよく知らない。いつも戦争ばかりしている危険な人間が住んでいる危険な国々だと思っている。新聞やテレビから流れてくる情報が偏っているから仕方がない。ヨルダンに二年間青年海外協力隊員として滞在して以来、アラブの人々と関わりを持ち続けている私は、ぜひその壁を打ち破りたいと思った。「世界平和の第一歩は、お互いを知り合うこと」だと考え、手紙でも絵でもいい、相手の存在を知るきっかけを作ろうと日本・ヨルダンやイラクでいろいろな人に呼びかけてきた。この学校での交流活動もその一つであった。
しかし、「異文化理解や世界平和、そんな絵空事より、今の生活をなんとかしてほしい。教室に電気を、治安の回復を・・・・。」先生たちの胸のうちはそういうことだったのではないだろうか?
しかも、日本政府がイラクに軍隊を送りこもうというその日に、日本人が平和のメッセージを持ってのこのことやってきたのだ。「しらじらしい」その言葉がぴったりのタイミングになってしまった。せめてもの救いは、歓声をあげ、奪い合うようにして、日本からの手紙や書道作品を受け取ってくれた女の子たちの姿であった。
いつも、子どもたちの無邪気な笑顔に勇気づけられる。このイラクの子どもたちが、心の底から笑い、安心して生活できる日が早く来ることを願うばかりである。そのために、私たちは今、何をすべきだろうか?