[コラム] 渡辺雄三自伝第5回「奔流する時代を見つめ続けて」
気力も体力も奪う「飢え」との闘い そんな中、父親が復員
東京の情勢も心配した程でなく、一週間程度で東京へ戻りましたが、母の実家に泊まった夜、狼の声を聞いたことは今でも忘れられません。
夜寝ていると、突然、「ケーン、ケーン」という鋭い叫び声が、向かいの山から聞こえてきました。その声は仲間を呼んでいるようでした。
一緒に寝ていた従兄弟達は「狼だ、狼だ」と言って、布団の中へ潜り込んでいました。多分、私は狼の鳴き声を聞いた最後の日本人の一人ではないか、と自負しています。
伯父の家が私の家から二`ほどのところにあり、リヤカーを引いて母と共に其処へ通い、耕せるところは全て耕しました。小麦を収穫した後、高粱・とうもろこしなどを作っていました。
だが、一四歳の食べ盛りの私には足りるはずもなく、やせ細っていくのが自分でも分かりました。それで、蛙でも蛇でも、食べられる物は何でも食べました。
人間は不思議なもので、飢えていくと動くものが何でも食べ物に見え、自分がまるで動物に返ったようでした。一五歳の春、母は小麦を干そうとして物置から持ち出してきた筵を開けた途端、悲鳴を上げ、飛び上がりました。
見たら、しま蛇でした。まだ冬眠から覚めていなかったのか、ノロノロしていました。私はその蛇を見た途端、脇にあった箒を掴んで、蛇の頭に振り下ろしていました。
動かなくなった蛇の頭を落とし、皮を剥いて胃袋を見たら蟻が入っていましたが、冬眠明けなのか、身体は未だ痩せていました。尻尾を切り落とし、七輪で火を興し、その肉を焼きに掛かりました。
すると、姉が寄って来て、「雄ちゃん、私にも頂戴」と言ったので、二人で分けて食べましたが、美味しいものではありませんでした。
飢えで身体が痩せ、無気力になっていくのを自分でも分かっていましたが、どうにもなりませんでした。そんな時、一五歳の六月、父が突然復員し、原職に復帰しました。
それで、私の生活は一変しました。精神的にも、肉体的にも元気を回復しました。
日本中が騒然となった朝鮮戦争 共産党に入党、政治的に開眼
菱三号館がソ連駐日代表部となっており、そこで毎日曜日朝からソ連映画が無料で上映されていました。それを私が知ったのは、新聞からだったと思いますが、無料で映画が見られるので、日曜が来ると其処へ行くのを楽しみにしていました。
「一〇月のレーニン」「若き親衛隊」など、感動的な映画もありましたが、「ゴーリキー三部作」など、幼い私には退屈な映画もありました。そんなことで、当時からソ連に対する嫌悪感はありませんでした。
戦後の学校生活で、今でも忘れられないのは、T先生という数学の教師です。私が通っていた中学の近くにあった陸軍予備士官学校が閉鎖になって移って来た人でした。
彼が教えたのは解析幾何学でした。多分、高校の解析幾何学の教科書を書いたのは彼だと思いますが、実にユニークな授業でした。
ピタゴラスの定理を教えるのに、まずナイル川の巨大な堤防、エジプトのピラミッド建設がどのようにして成し遂げられたのか、説明してくれました。そのような社会的な必要性と実践を通してこの定理が生み出されたことを、彼から教わりました。
有限と無限、微分・積分、二次微分、ニュートン力学、F=ma(運動の法則)なども、単なる天才の想像の産物でなく、当時の社会的な必要性の産物であることを、彼は教えてくれました。これは、後にマルクス主義を学ぶに当って、大変役立ちました。
大学受験に失敗した私は、この中学(後の新制高校)で三年生を二度やることになりました。その時、私の運命を変える事件=朝鮮戦争が起こりました。
日本中が騒然とするなか、学校の中もこの話で持ちきりでした。そんななかで共産党に入ったのですが、どのような経緯で入ったのか、私には、全然記憶がありません。
当時、私を含め六人の細胞員がいました。主な武器はガリ版刷りの細胞新聞でした。
新聞に「警察予備隊員募集」の記事が出ていました。教室で、皆がストーブを囲んでいる時、これを私が持ち出すや、皆が「俺は自衛隊に入る」「止めておけ」等々、勝手にガヤガヤ議論を始めます。それをそのまま記事にして、学校中にばら撒いたら、学校の雰囲気が一変しました。
これが私にとって政治活動への開眼となりました。
(つづく)