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更新日:(2004/02/19)

[コラム] 渡辺雄三自伝第3回『奔流する時代を見つめ続けて』

伯父・助川少佐の死から朝鮮労働党史への懐疑へ

小学校で本格的な農業も仕込まれました。師範学校には寮があり、其処の便所から肥えを汲んで畑まで担いできて、細かく切った稲藁に肥えを掛け、積み上げるという、本格的な堆肥作りまで習いました。

私の家の庭に肥を撒いて百姓をしていたのは父でした。私の家の敷地は一五〇坪で、屋敷の前に芝生を敷き、その向こうを畑にしていました。

目の前の庭に黄色いものがあるという光景は、決して気持ちのいいものではありませんでしたが、採れた苺が甘く美味しかったので、納得していました。

母方の家の次男は、陸軍士官学校を出て職業軍人でしたが、私が小学四年生の時に中国東北部の「満州」で戦死し、その葬儀に出席しました。この時、戦死の状況は「一個中隊を率いて平原を行進中、匪賊に撃たれ命を落とした」、と聞かされました。

それから数十年後、伯父の死に関して全く違った情報に接しました。ある日、新聞社に届いた朝鮮総連機関紙「朝鮮時報」の一面に、キム・イルソン率いる抗日遊撃隊の歴史の連載が始まっていました。

それを読んで驚きました。私の伯父である「助川大佐を殺したことが勝利の第一ページだ」と書かれていたからでした。彼の階級は戦死した時少佐で、死後中佐に進級したのであり、「大佐」も戦果誇大のための誤報でした。

戦死した場所は吉林省の大平原だ、と聞かされていました。大きくなって、私は中国共産党の抗日ゲリラに殺されたものと思っていました。これが、朝鮮労働党の歴史に疑問を抱いた始まりでした。

朝鮮労働党のゲリラの根拠地はロシア領内にあり、越境してヒット・エンド・ランを繰り返していましたが、彼らが朝鮮半島内に恒久的な基地を持ったことがない、というのは当時から言われていたことでした。

それ以来、私は「朝鮮労働党の歴史が偽造されている」、との疑いを持つようになりました。

戦争に翻弄される暮らし 満州で私腹を肥やしていた岸

父親は私が小学五年生の時、司政官としてスマトラ島に派遣され、父不在の生活が始まりました。今から思い返してみると、この年の夏休みは姉と共に富士登山に連れてってくれたし、父の故郷や鍾乳洞にも連れていってくれました。

富士山の頂上まで上がり、本当にいい思い出になりました。しかし、四四年になると、配給で食べられなくなり、母が着物と引き換えに食べ物と交換することでは追いつかなくなり、畑を借りて耕すようになり、私も学業よりも、その手伝いを優先するようになりました。

戦争が激しくなると、共に兄も姉も軍事工場に動員され、兄は殆ど泊まりこみの毎日でした。

四三年の夏休み、突然、代議士の伯父が私の家を訪ねてきました。何時もは、玄関から「ご免下さい」と言って入ってくるのに、この日ばかりは庭先から入ってきました。驚いて私は母を呼びました。

伯父は、母とヒソヒソ話していましたが、直ぐ帰りました。その数日後、大変な知らせが飛び込んできました。伯父が乗った関釜連絡船の「崑崙丸」が米潜水艦に撃沈され、誰も助からなかった、というのです。

私も親戚代表の一人として伯父の葬儀に出席しましたが、大変な葬儀でした。「大政翼賛会葬」として行われ、先ず、天皇の名代として侍従長が玉ぐしを捧げ、その後、永野陸軍令部総長が続き、ベタ金の礼装をした軍人達の列が延々と続きました。

それから二年後、戦争に負け、極東軍事裁判が始まりました。テレビに岸信介の顔が映った時、母が突然叫びました。「兄さんが『岸は腹黒い奴だから、何されるか判らん』といっていた」

大学で日本史を勉強するようになって、その背景が色々判ってきました。伯父が満州に渡った目的は、政府の本土決戦決断に伴って、食糧を満州から本土へ運んでこなければならなくなり、そのための交渉で渡満したのです。

「岸は腹黒い奴だから」と、伯父が母に告げた理由は、一〇年ほど前、NHKのテレビを見て、その謎が解けました。四一年まで岸は、満州国首相をしていましたが、彼は農民にケシの栽培を強要し、それから阿片を精製し、当時上海にあった陸軍特務機関の親分・児玉譽士夫に売却し、私服を肥やしていたというのです。

伯父は東條内閣の農林政務次官をしており、戦時食糧計画の立案者でした。満州国政府に食糧増産を求めることは、阿片栽培を縮小もしくは止めろということです。

それで、岸の背後に児玉がいることを知っていた伯父は、出発に当って、万が一のことがあった時、家族への伝言を母に託すため、私の家を訪れていた、と推測しています。

伯父の長男は、新憲法下初めての総選挙で当選し、五九年自民党議員として始めて訪中しましたが、六一年白血病で急死してしまいました。

「家を守ろう」と必死だった東京大空襲 恐怖だった戦闘機の機銃掃射

四五年三月一〇日、東京大空襲は忘れようにも忘れられません。東京市街地の空が真っ赤に燃え上がり、夜明けまで続きました。

私の家は市街地と農村地帯との境目にあり、焼ける直前で助かりましたが、それからは連日連夜、焼夷弾と照明弾が落とされ、家の火災を防ぐのに必死でした。

先ず、照明弾が落とされ、辺り一面が昼間のように明るくなります。すると、焼夷弾が落ちてきます。

焼夷弾は長いアルミの筒の中にガソリンでゴムを溶かしたものが入っていて、着地すると爆発し、それが周囲に飛び散ります。その上から火の着いた布切れが落ちてきて、着火する仕組みになっていました。

先ず、照明弾が落とされ、周りが明るくなると、庭の防空壕から這い出して、ポンプで汲み出した水を家に掛け、燃えている布切れを消すという作業の連続でした。だが、隣近所を見ると、逃げて誰もいませんでした。

だが、「父が帰るまでここを守ろう」と私と母、姉は必死でした。

私が通っていた中学校は一d爆弾が二発も落とされ、校庭に大きな穴が二つも開いていました。校舎の窓ガラスは殆ど吹き飛ばされ、授業など出来るものでありませんでした。

戦争で、今でも忘れられない恐怖の記憶があります。それは戦闘機による機銃掃射でした。

普通、私達は弾が近いか遠いかは、目で確認する前に音で判断していました。自分の方に近づいてくるのか、遠のいていくのか、音を聞いて聞き分けていました。

だが、戦闘機による機銃掃射では、耳に聞こえる前に、目の前の建物が燃え上がっていました。逃げようとする前に殺されている、というこの恐怖は今でも忘れられません。

学校の帰り道、畑の中を一直線に走っているいつもの道を通っていた時でした。先ず、目の前の白壁の土蔵が破壊され、屋根が吹っ飛びました。その後から「ゴーッ」という轟音が聞こえたかと思ったら、戦闘機の機影が頭の上を掠めていきました。(つづく)

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