2000年 9月5日
通巻 1053号

 池宮彰一郎の『本能寺』(毎日新聞社刊)は、徹底した信長への思い入れが、読む人間をひきつける。新しい世の創造にむけて、全ての既得権を破壊すべく疾走する信長と、後継者であったはずの知識人光秀の裏切り。知識人すなわち常識人の限界が重い。

 迂闊にも、長年の強敵武田を討ち果たした気の緩みから自らの夢を語った信長の言葉に、同席していた堺の商人、朝廷の重臣、諸大名ら守旧派は、いっせいに動きだす。自らの地位が危ない。信長は本気だ、と。

 機を見て敏な光秀が動く。その謀反をつき動かした動機が、信長の時代を創らんとする人間力への畏怖であったと筆者は断じている。それはあくまで仮説にすぎない。でもおもしろい。

 そして、封建制度の崩壊は信長の死後300年を待たねばならなかった。一人の異才の力が歴史を動かすことのできる限界を、その事実は物語っているのかもしれない。

 時代の変革のために、破壊はある意味で不可避だろう。資本主義ほど、無慈悲に残酷に破壊してきた体制はない。今、アフリカで中東で生存すら奪われた人々や国のなんと多いことか。成長は競争を煽り、競争は破壊を生み出している。我々のめざす社会変革もまた、破壊は不可避だ。人々の生活も変化を余儀なくされよう。死もあるやもしれぬ。違いは誰が、誰のためにというところにつきつまる。(M)

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