編集部からの問題提起に応えて

1078号「歴史的総括へ 多くの人々
の活発な論議を!」を受けて (下)

浴田 由紀子

2001年 9月15日
通巻 1087号

4、解散宣言の非政治性・非組織性と無責任構造について

 旧日本赤軍が解散すること自体は長年問われてきました。この国と世界情況の変化の中で、旧来の私たちの役割はすでに終了したこと。また私たち自身、武装闘争路線によってではなく、民主主義の徹底によって、この国の変革を実現する主体として実践開始する中で、軍の名を排して実体にそった名称になることが、人々とありのままに出合うためにも、問われてきました。
 問題は、「日本赤軍」の解散そのものによりも、その仕方にあると考えています。
 第1の問題は、「宣言」が党の組織的総括を抜きに、何故、今解散なのかを人々に責任をもって明らかにするものではなかったことです。一方的で結論だけの宣言は、乱暴かつ無責任で、政治性のない「次」を展望し得ないものでした。少なくとも日本赤軍は、30年近くアラブの地に実在し、この国と世界中の多くの闘う人々や革命組織との共同・共闘の中で、この国と世界の変革のために闘ってきました。良くも悪くも社会的・歴史的存在であったはずです。宣言では、その果してきた役割と未完の任務、共に生き闘った人々への責任を明らかにされなければなりませんでした。
 客観的な位置と役割の側からの「闘い」に取り組むことをおろそかにした独善的なあり方が、解散にあたってまず人々への責任と総括を明確にすることを軽視する結果になったと思っています。「闘いの社会性≠ニ闘いの歴史≠フ私物化」と言われても仕方のないあり方でした。良くも悪くも社会の変革を目指す者の行為の結果は、全ての人々の現実へと反映します。あたらめて私たちは、解散に至る闘いの総括・日本赤軍の闘いの歴史を、日本赤軍に関わった全同志の責任おいて、人々とこの国の変革の闘いに返すことが問われていると思います。
 第2の問題は、「宣言」が、組織的には決定権を持たない立場にある獄中メンバーの個人名によって(組織内任務名によってでもなく、すなわち、獄外に条件・人材のない場合「情宣局」名とかあるいは獄中者の連名とかだったら、あり得るかも知れません)、それも、独立した「宣言」としてではなく、被疑者が裁判所に対して行う「意見」の中でついでに行われたことの非組織性です。そのことが、宣言の信用性のみならず政治制・組織体質(本当に民主主義的な組織なのか)を疑わせ、裁判対策のための独断ではないのかと不安を抱かせるものになりましした。
 事実としては、獄外旧メンバーの一部が、弾圧連鎖の阻止と被害者への謝罪を早急に示すためには、マスコミが取り上げやすい重信さんの口から「解散宣言」をさせるのがいいと考えて依頼しました。しかし、この1つ1つの判断が『大間違い』と私は思います。
 弾圧の連鎖が、法廷で被疑者が組織の解散を宣言することで妨げるものでしょうか 弾圧の根拠の具体性に目をつむり、その責任をあいまいにする発想でしかありません。解散を宣言することが、被害者への謝罪になるのでしょうか。いま被害者にとっては、名称なんてどうでもいい、何故自分が被害を受けることになったのか、現実の苦痛をどうしてくれるのかこそが大切なのだと思います。再び被害者を楯にして組織的ケジメを責任回避するものです。
 「マスコミ受け云々」に至っては、自らに問われる役割を責任回避して、獄中の同志に困難と不利益・不名誉を押しつけるものでしかありません。自己の責任回避と保身のために徹底して人民・同志を利用し、皆で作った組織の政治性と責任までも放り出す発想です。
 何故こんなことになるのか 一緒に生き闘った同志・友人たちや支えてくれた人々は、地理的別離と共に、生身の私たちの血や心からいなくなってしまったのか。自分と一部の同志たちとの関係、あるいは自分(たち)と「敵」との関係においてしか組織や革命の役割を考えていないこと、本当の意味で人々のために人々と共に生き、闘おうとしなかったこと、そして、1人になっても自分なりに責任を持って人民と革命を守りぬく立場のないところに、こうした誤りの根拠はあると思います。あらためて今私たちは、誰のために、誰と共に、何を目指して生き闘う者であったのか、あろうとするのかを問い返す必要があると思っています。

 第3に、そうした誤りを克服すべく、獄外から出された「日本赤軍・最後の5・30声明・解散宣言」も、形式的には組織名による声明でしたが、連絡を取り合える同志たちの意見を聞くこともないままに、内容的にも「個人解散宣言」を無批判にフォローし、再び、解散の組織的総括・政治的責任については、その基調すらも明記されていません。
 一方で声明は「1年後の新しい名称でのアピール(組織再編 )」を予告しています。そのための方策、誰のために、誰と共に、何を目指すのか、そのために自分たちをどう変えるのかは見えません。客観的な要請や責任に応えることにではなく、自分たちが「闘っている」つもりに意義をおいてしか「革命」の任務をとらえ得ない、今だに「この国の変革の闘いの一環を敗北させてしまった自分たち」の客観的な姿を理解し得ていない実体がここにもあると思っています。
 今、私たちに問われていることは、自分たちが所属≠オうる新しい組織を自分たちのためにデッチ上げることなのではなく、まず、目の前の攻防(裁判・獄中・弾圧の拡大)を責任を持って闘い抜くこと、さらに私たちの闘いと敗北の総括と教訓を1日も早く人々に返すこととしてあると思っています。その中で、人々に出合い、自分たちの姿と役割を自覚してはじめて、次に何をなすべきかが出てくるのではないでしょうか。
 最後に、自らの闘いの不十分性と誤りの故に、不当な弾圧を許した結果として、今多くのメンバーが強いられている獄中、裁判闘争において私たちは、よく団結して、一体的に、この国の反弾圧闘争の一環として、取り組めていません。そのことがさらに、裁判・獄中人権闘争や反弾圧戦線の闘いを共に担おうとする人々との共同・出合いを阻害し、再び自らを孤立させ、救援運動をも狭い力ないものにする悪循環におちいっています。
 その根拠には、反弾圧闘争の軽視、司法への幻想と共に、何か自分あるいは自分たちの闘いと存在を特別なものであるかのように考え、人々の闘いや歴史に学び、その一環に参与することを軽視するゴーマンさがあると思います。『今日1人への弾圧を許すなら、明日全人民への弾圧に道を開くことになる』。今、獄中も、裁判も、この国の人民支配・人権侵害と、革命派解体の最前線攻防を私たちは担当しているのだという立場で、取り組むことが問われていると思っています。
 さらに、組織としての獄中同志支援の体制が少ないことについて、「日本赤軍は、逮捕されたら、自分の身は自分で守れという組織なのか」と疑問を呈した獄中同志がいましたが、「タテマエ」はそうではありません。これまで私たちは、「やりたくてもやる力量がないだけだ」と言い訳をしてきました。しかし今、もう一度、反弾圧・人権擁護の闘いを、この国の変革の闘いの中でどのように位置づけ、担おうとしてきたのかを問い返す必要があると考えています。武装闘争を是とした時代、私たちは同志奪還を組織の使命として取り組みました。武装闘争を手段として選ばない闘いの中で、どう獄中同志を防衛し、支援し、共闘していくのかを位置づけ直す必要がありました。
 12月12日の拘留理由開示公判における重信さんの「司法に身をゆだねても良い覚悟云々」という発言は、重信さんの意図はどうあれ、かつて、人民を、革命を、組織を防衛し抜くために断固非妥協の獄中、裁判闘争を闘い、それ故に重極刑攻撃を受けている同志や先達、獄死した同志たちの闘いをブジョクするものです。被逮捕を覚悟して困難な任務を担うことと「身をゆだねる覚悟」で敵を挑発し、危険を犯すこととは180度対極にあります。
 この発言は、一部に『合法・公然路線とは、手配中のメンバーが順次帰国し、公然運動に参加するという意味なのか』という誤解を与えましたが、それはありません。

5、そして今、何から始めるべきか

 私自身は、この間の問題を含む「日本赤軍の闘いの総括」を、可能な限り、人々と共有していくこと、日本赤軍の闘いを今だに勝てていないこの国の革命運動の一環として、他の領域で闘いを担ってきた人々と統一的、共同の総括を進める中で、共通の教訓と、新しい闘いの方向を共に導き、人々に返していくこと、そのような開かれた総括討議・総括実践を開始することが問われていると思います。それが30年近い年月を革命組織として闘ってきた者たちの歴史と人民への責任であると考えています。
 そのためにも、今は、旧日本赤軍メンバーの1人1人が「1人の革命家」として、自分自身の置かれた位置で、人々の闘いに参加し、人々に出合い、共同していく中で検証され、鍛えられ得るような回路を切り開くことから始めなければなりません。その中で、私自身がこの国と世界の革命の歴史と教訓を学習し、総括する中から導いた私達自身の思想的立脚点(無謬の党観の否定や党の役割・自己批判・自己変革を軸とする人民原理に基づく)闘いの立場、観点を何故に自分自身の行動原則になし得ず、言うこととやることの違う者になってしまったのかを問い返し、総括実践していくこと、人々との共同の中で私たちがなすべき役割を見い出すことが問われていると思います。
 そして何より、今なお困難な地下生活を強いられている同志たち、獄中で不当な重刑攻撃を受け続けている同志たち、共に闘った友人たちに、まずこの間の「敗北」の総括を彼らが今日を生き抜き、闘い抜く教訓として早急に返すことが、彼らと勝利を共にするための闘いの第一歩であると考えています。そうして初めて私たちは難局を勝利の土台へ≠サれぞれの持ち場から一つの目的に立ち向かえるでしょう。
 旧日本赤軍の同志たちは、この年月を誰よりも真剣にこの国と世界の変革のために闘ってきた者の1人ひとりです。それ故にこそ、私もまた彼らと共に、何とか人々とこの社会の変革に役立ち得る者になりたいです。あらためて、率直な批判と助言を、そして変革の闘いの共闘をお願いします。誤りを率直に認め、自分を変える勇気を持って、今この地平から誰もが対等に尊び合い、分かち合って、共に平和に生きられる社会の実現のために歩を進めましょう。      (おわり)

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人民新聞社

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