インド・中国の本格的資本主義化で
日本は半周辺へ移行する
アメリカン・ヘゲモニーと企業倫理
▼田畑 「国際非営利セクター調査学会」は、欧米はもとより、ラテンアメリカやアジアやアフリカのメンバーも含み、かなり大規模な調査を行っていますが、この学会を組織した合衆国という土壌にも注目したいと思います。合衆国はヘゲモニーを握ってグローバリズムを担っていますから、対抗ヘゲモニーにかかわる知識人もそういう広い視野があるように思われます。どちらかと言えば日本では、知識人も政府と同じで一国的な関心にとどまっているように思います。
▽鵜戸口 日本はアメリカ認識が弱いと思います。マスコミも常にアメリカの「政府」と「産業界」だけを見ていて、日米民衆の交流がかなり弱くなっていて、致命傷になっています。
それから企業そのものの体質の問題があります。今、企業は地域共同体に対しても従業員に対しても、責任を持とうとしていません。消費者に対しては形式的に責任は持とうとしていますが、実質は、株主の方しか見ていないのではないでしょうか
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これに抵抗していくには、労働者と消費の側が地域で団結していく必要があると思います。
▼田畑 ビジネス・エシックス(企業倫理)というのは、ラルフ・ネーダーたちがベトナム反戦のころから始めた消費者運動の副産物として生まれました。それまでビジネスというのはモラルと関係がないといわれていたのです。今や建前では「企業倫理」は経営者が普通に語るようになっています。この転換のパワーの源泉はアメリカの消費者運動なのです。
今、倫理は「ステークホルダー(利害関係者)倫理」という考え方になっています。つまり経営者個人の徳目ではなく、コミュニケーション型の協議システムで倫理というものを考えようということです。経営権力は人・物・金・情報を自由に処分できる権限なのですが、この権力のモラル・コントロールは、株主・従業員・消費者・地域住民・同業者・行政当局、それに未来世代といった利害関係者たちやその集団に対して、説明責任や情報公開責任、協議責任を負わす。利害当事者たちの集団間協議文化の形成の問題としてビジネス倫理も考えられております。
医の倫理についても同じです。医者が「父親のように患者を慈しむ」という徳目ではなく、対等な市民として患者達に対して情報公開し、説明し、協議する責任がある。「市民と市民」として協議する関係性の中で全体のモラルを高めていくというものになってきています。
今の倫理学は、交渉や異議申し立てや公開や説明責任といったコミニュケーション型の倫理学ですから、経営権力をどうチェックするかという問題についても、むしろステークホルダーたちのアソシエーションの水準が経営のあり方を決めていくという読み替えが出てきています。モラルを個人主義、徳目主義から解放して考えていくと、社会理論との接点が見えてきます。それで、なにもせずに楽観するということではもちろんなく、ヘゲモニーの争いの場が見えてきているということを確認すべきだと言いたいのです。
純粋市場というイデオロギーの歯止め
▼田畑 もう少し議論を進めると、こういうことになるでしょうか。市場を全的に国家集権的経済プランによって置き代えようという試みは事実として失敗しました。しかし純粋市場というイデオロギーに対しても歯止めをかけないといけない。
新古典派経済学者のいう純粋市場というのはイデオロギーです。現実の経済のパフォーマンスを説明するときに純粋市場モデルで説明できるかといえば不可能だと思います。物件化(物象化)というのは倒錯の世界でもあるわけです。物が自己運動しているように見えても現実は人と人との関係性の世界なのですから、関係性を自覚的に関係性として置き代えていく。それこそがコミュニケーション論的転回、アソシエーション論的転回がめざすものなのです。
市場というものは現実には、制度の中に「埋め込まれている」。現実の労働市場や消費市場や金融市場は、労働組合や消費者団体や労使慣行、消費文化、国家の再分配政策や金融政策をめぐる闘争や妥協などを通して存在しています。「制度経済学」とか「レギュラシオン学派」とかはそういうメカニズムを問題にしようとしているわけです。そういうアプローチに立って市場とアソシエーションの関係性を組み替えていく力関係をどう構築するのかという問題が、アソシエーション論には課せられております。グローバリズムの中で金融資本が全世界を支配していますが、金融資本が利用している資金の多くは勤労者の預貯金や資産です。逆にいえば勤労者の脱アソシエーション化、物件化が深化の極にあるから、金融資本の世界支配ということも可能になっているわけです。実践的に直ちに展望を語れるほど甘くはないのですが、しかしアソシエーション論の原理的意味は確認しておかねばなりません。
▽鵜戸口 既成の経済学では「消費」の概念が定立されていません。ところが現実には消費は大きな力を持っているわけですから、消費を民衆の側から組織するというのは大きな課題だと思います。
▼田畑 ステークホルダーという観点からいっても消費者というのは強いですよね。マルクスが言うように「売り」の方は「命がけの飛躍」であるのに対し、「買い」のほうは「お客様は神様」つまり貨幣という社会的権力の側ですから、運動論としては面白いと思います。従業員は労働力の「売り」の側で権力システムの中に入っていますから大変でしょう。しかし教科書的に言えば労働力商品というものの特質があって、それが運動論の根拠になり得ます。生活者の論理で言えば、生産者と消費者は生活者の両面でしょうから、むしろ生活者の論理に立って、従来の職場中心主義を批判するのが妥当に思われるのですが。
循環型経済と協同組合的地域経済
▽鵜戸口 ヨーロッパの社民政権の行方を見ていて不安に思うのですが、今またみんなが経済成長を求め始めています。民衆が経済成長を求め始めた時が恐いと思います。
ヴェブレンが言う「顕示的消費」を労働者の側で削ぎ落としていき、成長経済以外の経済を構想していくという提起は重要です。
▼田畑 「持続可能な経済」とアソシエーション視点の結び目については「協同組合的地域経済」の構想として、さまざまに語られております。食料、エネルギー、人的サービスを中心に地域で循環型の経済を作っていくというプロセスと、協同組合型の経済システムを市民が自発的に作っていくプロセスを、歴史的にどう合流させていくかという課題です。協同組合はすくなくとも「モラル・エコノミー」を標榜していて、資本制企業より大いにエコロジーに親和的でしょう。
イギリスの政治学者P・ハーストの「アソシエイティヴ・デモクラシー」の経済プランでは、中小規模の協同組合的、あるいは従業員自治的な諸アソシエーションにより「地域経済協議会」が作られて、そこで各種の調整を行うべきだとされております。市場は排除しないのですが、資金も基本的に地域から充足する。この資金は基本的には勤労者の資産であることを主な理由として、それぞれの経済単位は従業員自治で行われる。中央政府も法規制、税制、財政面での一定の役割を担い続けます。しかし地域の自治体であるコミュニティと企業連合のようなものが、循環型の地域経済の実態を創っていくという構想です。
もちろんグローバルな経済連関は、その実質面で、開かれた世界市民を支えています。グローバルな経済を全的になくすというのは非現実的です。全面的な封鎖的地域経済ということになると、アソシエーション型になりません。人々が単に政治的情報的文化的にだけでなく経済的にも地球的に開かれた関係性を確保することはアソシエーション型未来システムを構想する場合にも不可欠な前提でしょう。しかし今日のグローバル経済と呼ばれるものは、まったく滅茶苦茶な濫費システムですから、循環型の地域経済のコアをつくって、濫費の部分を大幅に削ぎ落とさないといけない。また協同組合的地域経済のようなコアをつくってモラルとエコノミーの資本主義的分裂を克服しないといけません。
半周辺へと移行する日本
▽鵜戸口 21世紀の日本をどのように予測していますか
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▼田畑 最近CIAの予測が出て、21世紀の早々にも日本はインドや中国に追い抜かれると予想しています。日本の歴史を考えると日清・日露以降、軍国主義と会社主義で例外的に突出した時期でしたが、もともとは漢民族中心の文明の周辺部を形成してきたわけですから、強がってもしょうがないわけで、ほどほどの位置ではないかと思います。経済指標でもって先進国入りし、1980年代で山を超えたと思います。この面では中核部分から半周辺部へと徐々に移行するということです。問題は西欧諸国のように、政治文化を含む文化的貢献をこれからやれるだけのポテンシャルを持っているのかということでしょう。東アジアに限って見れば「ポスト近代」という課題が日本でもっとも深刻化しているわけですから、そういう面での貢献は市民運動や社会運動のレベルでも問われてくるでしょう。
東アジア統合の問題は21世紀の日本を考える上でも中心問題になると思いますが、大問題は、インドや中国といった人口のスーパー大国が資本主義化するというのはどういう意味を持つのかということです。これは人類史に関わる巨大な問題だと感じています。それぞれ、今の先進国全部をあわせてもまだ足りないくらいの人数が、生活や規範において本格的に資本主義化するとすれば(もし可能だとしての話ですが)、その事態を踏まえて資本主義そのものを考え直さなければなりません。
今までの資本主義はいわば先行形態であって、いよいよ人類の本体が資本主義に突入していくということなのですから。日本でこそ「脱亜入欧」などと、ちまちましたことが言えたのであって、中国やインドのようないわばアジアそのもの、人類本体がそんなこと言えっこないのです。
(おわり)
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