21世紀新春インタビュー協同・アソシエーションは

グローバリズムをどう超えるか! [2]

田畑 稔(「唯物論研究会」主宰)
聞き手・鵜戸口哲尚

2001年 1月15日
通巻 1065号

アソシエーション論は、「陣地戦」を、
     現代的地平で再構成する

設計図提示型でない過程論的アソシエーション

田畑 未来のシステムとしてアソシエーション社会をどう考えるのか。この場合、アプローチの順序を間違えないようにしなければなりません。われわれが現に入り込んでいる生活諸関係から出発して、現存制度である市場や国家や会社や家族と対抗的に並存しつつもアソシエーショナルな関係性が「ドミナンス」(規定力)を保持できるような事態へと、現状を決定的に一歩進めること。これが現在の実践的目標であることは多くが認めるところでしょう。こういう実践的目標での理論と実践を積み重ねることを前提にして、初めて未来システムの問題が具体相で提出されてくると思います。
 未来システムにだけこだわる人は、批判(自己批判)対象である「ソ連型社会主義」に過剰に逆規定されていないか、自問する必要があるでしょう。「アソシエーションの波」は欧米でも、日本でも、途上国でも広く見られる事態であって、「ソ連型社会主義」を解体させた力の一つでもあります。合衆国の政治学者 LL・サラモンの少しオーバーな表現を借りれば「ひとつのグローバルなアソシエーション革命」の波が見られるのです。そういう歴史的動向に自覚的な形を与えてゆくのが歴史的実践ではないでしょうか。
 マルクスも協同組合を高く評価しましたが、個別的な努力に留まる限りはダメだと厳しく言っています。対抗的諸アソシエーションはバラバラであるかぎり、権力システムや市場の力には立ち討ちできません。だから、否応なくネットワーク化して対抗ヘゲモニーを形成せざるをえない。当事者たち自身、苦い思いをし、自分たちの運動のリズムに即しながらそういう力が現実に働くのを自覚するのではないでしょうか。国家的政治的手段はこういう歴史的運動の実態を前提にして初めて、補助的促進的自覚化的に機能しうるのであって、権力から未来システムを創出するというのは幻想でしょう。
 アソシエーションを歴史過程ととらえる「過程論的アソシエーション論」は、デカルト主義的な設計図提示型のアソシエーション論とは違います。第一に、アソシエーションの「外部」を、つまりアソシエーション化不能の現実、人間の攻撃性や私利追求、孤独志向や権力意志や閉鎖集団志向の現実を認めますし、第二に、脱アソシエーション化の諸力(営利集団化、権力集団化、閉鎖集団化の諸力)が常に働くことを認めますし、第三に、現実の諸アソシエーションがその内部に自生共同体的、権力社会的、商品交換社会的なものを包摂し、再生産することを認めますし、第四に、アソシエーション形態の無限の多様性を認めます。しかし同時に、諸アソシエーションは、それがかかげる価値が普遍性をもち、モラルの高さをもつ限りにおいて、歴史的現実の中で人々に対して訴える力をもち、ヘゲモニー的な力を発揮することも認めなければなりません。そのように「再アソシエーション化」の諸力が働くのです。
鵜戸口 保守主義がなぜこれほどまでに広まったのか、また、マル経の人たちが新古典派経済学に転向したり、これへの組織的抵抗ができなかったのか という問題があります。これは、マルクス主義が批判理論に転落しているという現状があるのではないでしょうか?

 

対抗ヘゲモニー形成と陣地戦


田畑 私の理解では「ソ連崩壊」で沈黙してしまった人や、古い信念と心中しようとする人は、外面はともかく、本質上、知的政治的エネルギーが枯渇したということだと思います。「転向」と言われましたが、正面から現実と切り結びなおすという人は、むしろ知的誠実、知的エネルギー、知的創造という点で、前者とは比べものにならないほど立派な態度だと思いますがね。
 マルクス主義が単なる批判理論に止まったというご指摘は、かなり重たい。若干補足させてもらうと、この批判が「外部」的批判であったことが、近代日本の極度に同調主義的政治文化の中で、かえって実力以上の批判的役割を果たさせた面もあろうかと思います。
 私が「アソシエーション論的転回」で言いたいことの中心は、ポジティヴな面で自分たちの理論や実践を検証する目を持とうということです。「疎外」とか「物象化」とか「権力」とか「恐慌(危機)」という言葉は繰り返し用いられましたが、マルクスにおいて本来、これらに対抗するポジティヴな過程であった「アソシエーション」については、ほとんど概念としてさえ抹消され続けてきたと言っても過言でないのです。
 保守主義の強さを言われましたが、あれこれの経済理論や政治理論でなく、あるいは単なる保守政党論や保守内閣論でもなく、「実在するデモクラシー」としての「保守的マジョリティーの政治文化」をいつも主要なターゲットとするという姿勢が必要だと思います。
 アソシエーション戦略というのは、生活世界でのいろいろな危機に直面して、自生的には「保守的マジョリティー」を構成してきた諸個人が、より高いモラルとより普遍的な価値を共同苦悩的に共有するようになり、新しい言葉で自己了解しつつ「アソシエイティブに生きてゆく」ようになる自己変革をベースにもちます。こういう無数に多様な「アソシエーション革命」を、「一枚岩」化することなく、横に繋げていく形で、資本や権力システムに対抗するヘゲモニーを構築していく。ということはアソシエイティヴな対抗政治文化を構築していくということに他なりません。
 ロシア革命を真似て失敗した「ヨーロッパ革命」の教訓として、グラムシが「陣地戦」と呼んだものを、アソシエーション論は現代的地平で考えなければならないでしょう。例えば、日本の戦後の現実でいうと、創価学会は陣地戦という意味では成功しました。戦後の宗教組織では一番の成功例ともいえます。しかし、アソシエーション型の陣地形成であったかというと、創価学会は、最近は変わってきたとはいえ、そもそもは自分でものを考えることが苦手な人間が池田大作氏なりに自己を対象化して作りあげた巨大組織です。自立性の放棄に基づく権威主義のシステムですから、アソシエイティブとはとてもいえません。 とはいえ、左翼は大きな批判理論は立てましたが、実践においては彼らに遠く及ばない。創価学会ほど民衆に食い込んでいるわけでもないし、生活世界の論理を同化しているわけでもありません。そういう意味で、グラムシがカトリックとの関係を視野に置きながら「知的モラル的ヘゲモニー」を考えたように、創価学会の現実を追いながら、アソシエーション型の「陣地戦」というものを考えて見ることは意味があるでしょう。

 

公権力とアソシエーション



田畑 ある研究会で「アソシエーション戦略というのは、新自由主義と同じように、法律その他で獲得してきた労働者の権利を放棄してしまうことにならないか」という危惧が労働運動活動家から出ました。
 私は、国家的政治的手段を原則的に排除するというふうには考えていません。革命権力からアソシエーション社会を創出するというのは幻想ですが、「アソシエイティヴ・デモクラシー」の提唱者であるイギリスの政治学者 P・ハーストも確認しているように、伝統的アソシエーショニズムの逆の失敗も見ておく必要があります。立法によって新しい原理を宣告させる。アソシエーション化過程を促す方向で法制上、税制上、財政上の措置を講じさせる。あるいは閉鎖セクトに転化してしまったアソシエーション内で、「協議」や「ネットワーク」だけで処理できないような抗争的事態や人権蹂躙があるかもしれない。こういう「脱アソシエーション化」の事態は当然想定されますので、公権力も「脱アソシエーション」的に働かざるを得ない場合も想定されるでしょう。その意味では権力システムは残らざるを得ない部分があります。人間の中の攻撃性や権力意志に根差しているものを、理念的に否定するという立場に私は立ちません。
 ただし、2つの前提条件があります。第1に自立的な対抗的諸アソシエーションの展開が実態として先行するということ、第2に現在の国家機構をそのまま残すというのではなくて、国家そのものを「アソシエーション」として再編成する過程を同時に進行させることです。

国際非営利セクター調査学会


田畑 鵜戸口さんの「グローバリズム」論を読ませていただいたのですが、たしかにグローバリズムというアメリカ・ヘゲモニーは、「ソ連型社会主義」という対抗ヘゲモニーが崩壊した結果、全面化しました。ところでグラムシは国家ないし政治を強制と同意に区分し、後者をヘゲモニーと見ております。ヘゲモニーについていえば、実態面での所与の現実展開があって初めて、その上に同意の網がかかるのであって、一から十まで意のままにヘゲモニーが覆いつくすわけではありませんよね。その意味では、グローバル化の実態面での現実展開をまずは分析的に見て、その上でヘゲモニーと対抗ヘゲモニーが絡んでいくという論理の立て方が必要ではないでしょうか。
鵜戸口 今、大きな問題として環境の問題と労働力移動の問題、そして都市の社会運動の多様性のなかに大きな可能性を感じています。
 例えば、都市のフェミニズムの運動は、インターナショナルな性格を持ちながら展開しています。第三世界でほとんど無賃労働になっている生産側の女性と、先進国の都市の中産階級の消費者としての女性をつなぐというような運動も出てきています。人と商品を交えた交流のなかに、グローバリズムへの対抗の可能性を感じています。
 運動の側の知識人との関りには多くの問題を抱えていますが、一方アカデミズムの側に望むのは、実際の今の現実を統計資料も含めて描きあげるという作業です。
田畑 アメリカのジョンズポプキンス大学が中心となって、非営利セクター全体の現実を調査する目的で「国際非営利セクター調査学会」というのが設立されました。欧米中心に活動家も含め数百人が参加し、「ボランタス」という定期刊行物を発行しています。これは鵜戸口さんがいわれる現実を調査するという作業としては注目できると思います。知識人が運動にどう関わるかの問題は今に始まったことではありません。もちろんあれこれの活動家集団の「提灯持ち」になることではなく、知的作業それ自身によってネットワークのなかで貢献することが必要でしょう。
 私が心がけていることは、大学などの制度化されたシステムの外部に「在野で」知的共同を進める文化的運動体を不断に形成することです。研究者や活動家の区別を超えて、ここでは実践領域や専門領域や思想的立場の差異を、知的創造のエネルギーに転化させることが目指されねばなりません。もちろん議論のプロセスは共有しますが、刈り取りは自己責任で各人がやるのです。
鵜戸口 運動の側の頭が転換できていません。知識人を「人寄せパンダ」のように扱う姿勢が変わっていません。知識人にできることは限られているわけですから、どう生かすかは自分達の力量が問われているはずです。それを知識人のせいにして逃げてる状態が続いていると思います。

 

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