21世紀新春インタビュー協同・アソシエーションは

グローバリズムをどう超えるか! [1]

田畑 稔(「唯物論研究会」主宰)
聞き手・鵜戸口哲尚

2001年 1月5日
通巻 1064号

フォーディズム後の労働者


鵜戸口 既成の労働組合の組織率が低下し、社会的影響力が低下した起点になったのは、1つは1970年代初めのオイルショックで国民春闘が成立しなくなったこと、そしてもう1つは、1985年プラザ合意後、労働組合が企業といっしょになって財テクに走ったり、違う世代の多様な要求を吸収できなくなって若者がそっぽを向き、不信感を持ち始めたという2つの転換点があると思います。


田畑 現在は、いわゆるフォーディズムの時代とちがい、企業が労働者を大量雇用し丸抱えする条件はなくなりました。雇われているといっても能力主義競争に勝つエリート組は、かなりの所得と生活水準を得るでしょう。しかしそれは限定された層でしょう。
 むしろアウトソーシングや雇用形態の多様化によってかなりの労働が外部存在化します。外部化された人たちは、今日の条件下では本格的な闘争を経過して生活条件の一定の平準化を勝ち取る可能性は残しながらも、闘いなしにそれを自動的に実現できるなどありえないことです。ですからアメリカや日本の現実を見ても、一定の両極化は避けられないように思えます。
 リストラで追いつめられ、多様で分散的な雇用形態をもち、これまでに闘争経験もほとんどない労働者たちがアソシエーション化を進めて自己主張をするまでにはやはり一定の時間がかかるのではないでしょうか。両極化に伴うさまざまな問題がある程度深刻化し、会社や政府の温情などに期待を寄せていたのではどうにもならないと自覚せざるをえないような事態が先行せざるをえないでしょう。
 しかし両極化があるところまで進むと次の局面では、当然アソシエーション化が促され闘いの力が出てきて、一定の平準化作用が働いて、フォーディズムとは異なる新たな調整形態が定着するでしょう。どんな形態になるかは闘争の質に大きく依存するように思います。このプロセスを通して、フォーディズム適応型の従来の脱アソシエーション化した労働組合は否応なく再編成・再アソシエーション化を迫られるでしょう。コミュニティー・ユニオンや管理職ユニオンのような個人加盟で地域密着型のユニオンが現在活性化しているのも、そういう側面から見ることもできるでしょう。
 こういう時代をどう読み解いて言葉にしてゆくかという点では、「労働者協同組合(ワーカーズ・コオペレイティヴないしワーカーズ・コレクティヴ)」も新しいテーマとして注目されるべきでしょう。資本制企業がリストラや外部化を進め、失業率が上昇していく事態を、協同組合という対抗的アソシエーションでこの空白を埋めていくチャンスと見るということです。
 たしかに金融資本や先端産業や基幹産業では、巨大な再編過程がグローバルに進展しているのですが、これが今日の経済のすべてなのではありません。地域経済が見直され、福祉や医療や生活環境関連サービスといった日常生活密着型経済領域が今後比重を高めていくことも間違いないでしょう。世界の協同組合運動は早くから「協同組合的地域共同体」の形成を目指していますし、イギリスの政治学者ポール・ハーストの「アソシエイティヴ・デモクラシー」も、アソシエイション連合型の地域経済構想を含んでいます。
 地域経済に関わるアソシエーション戦略は、オールタナティヴな生活の実践という面からも、つまり地球環境危機という事態に直面した人間たちの一種のモラル改革という点でも注目されるべきでしょう。たとえば今まで月40万円稼がないと豊かな生活ができなかったが、15万円のお金でエコロジカルに、しかも人間関係を中心に、それなりに豊かに生きていく。あるいは就職難に不満を言うだけではなくて、自分たちで積極的自治的に職場を創っていくという生き方・働き方です。
 もちろん現実の市場競争の中で地歩を確保していかねばなりませんから、しっかり経済合理性を身につけることやネットワークを形成すること、さらには不断にメッセージを発信し政治的手段を利用することなども不可欠ですが、そういう可能性はフォーディズム後の社会ではかなりあると思います。


経済民主主義=企業市民の自治


鵜戸口 1997年のアジア危機の時でも、基本的には、日本の勤労者から集めた生保などの金融機関の金がアメリカに渡り、その金をアメリカが動かしてアジアの数千万の労働者をアッという間に失業させました。その上日本も経済危機が進行しました。日本の労働者の金で東南アジアを痛めつけ、自分たちも失業するという事態になりました。勤労者が自分たちの自治集団で金を管理するという構想の可能性はどうなのでしょうか?


田畑 合衆国の政治学者ダールに『経済民主主義』という書物があります。そこで彼が言っているのは、今日の政治的民主主義を脅かしている最大の構造的問題は、それが内部に会社という巨大な「専制」システムを抱えている点にあるということです。


 たしかに今日の会社は権力システムとして見れば、所有に基づく物件的権力と経営機能に基づく知的権力の複合と見てよいのですが、いずれにせよ従業員の自治として民主主義的に構成されているのではなく、まったく「専制的」に構成されているのです。いわゆる株主民主主義も「専制」権力内部の「民主主義」にとどまるのです。この「専制」システムが政治的民主主義に対して市民個人がもつよりもはるかに巨大な影響力を持つために、政治的民主主義は構造的危機に陥っていると。
 ところがダールが言うように、この権力が動かす資本といってもその基本部分は勤労者の預貯金なんです。このことを法理論的根拠にダールはコーポレイト・ガヴァナンスを「企業市民の自治」として再編成することを主張しております。さきほど触れましたハーストの地域経済構想にも同趣旨の主張が見られます。
 協同組合ないし経済民主主義への転化過程を促す上で「信用」のもつ決定的に重要な意味はマルクスも強調してますし、すぐに失敗したとはいえプルードンの「人民銀行」のように早くから実践的試みもありました。アソシエーション戦略を考える以上、この問題は避けて通れないでしょう。
 もちろん協同組合の相互支援のような事実上の信用組織化は日本でもすでに行われていると考えられるし、労働金庫や各種共済制度もあるわけです。ただ日本では「労働者協同組合」の法律もまだない状態ですから、アソシエーション過程を質的に本格化させていく中で実践的に答えていくしかないでしょう。


貨幣と権力とアソシエーション


鵜戸口 勤労者がなぜそういう行動をとるかというと、もちろん生活の安全ということもあるのですが、基本的には、「欲望」というのが普遍的にあります。グローバリズムが一番恐ろしいのは、労働者も含めて欲望が解き放たれて、金で世界が動かされているということです。自分自身の〈欲望〉に殺されかねないという事態です。
 さまざまな経済学者・哲学者・社会学者が、今「貨幣」を定義づけようとする試みがありますが、新しい生活の哲学が何か必要なのではないでしょうか。


田畑 たしかに近代市民社会における人間たちの存在において、貨幣がしめる位置は絶大なものがあります。マルクスの示唆に従えば、「人格の共同体」が解体するに比例して巨大な商品世界という「物件の共同体」が現出し、貨幣がこの共同体の王として君臨するわけです。そして人と人との関係を物と物との関係に置き変えていくことで初めて人間関係をグローバルな規模で網の目のように張り巡らせることもできたと言えるでしょう。グローバリゼーションと言われるものは多様な側面をもつでしょうが、その基底に人間関係のこのような物件化があることは明らかです。
 私はアソシエーション過程は、原理的レヴェルで見れば、物件化(物象化)過程および権力過程への対抗過程であると位置づけています。物件化は人と人との関係を物件相互の関係として現出させ、諸現象を諸物件の自己運動のように現出させます。そこに経済危機やエコロジー危機や文明の危機と言われるもの、あるいは人類の危機と言われるものがはらまれているのです。
 アソシエーション化は逆に、人々が協議主体、責任主体としてたち現れて、一見諸物件の自己運動に見えるものを人々自身の関係行為の所産として自覚的に了解し、自治的に調整しようとする運動であると言えるでしょう。ただし個人がまだ目的として確立していないような狭隘な前近代的共同体に戻るのではなく、世界市民的な普遍性の地盤でそれを成し遂げようとする運動なのです。
 権力過程についてはどうでしょうか。社会的権力は人々を束ねて「社会的な諸力」を組織化します。そこに権力関係の社会的実質があるのです。しかしこの「社会的諸力」は束ねられた人々自身の結合された諸力として現出せず、彼らを束ねている松下幸之助さんや池田大作さんの力として、あるいは資本という物件の力として「外化形態」をとって現出するのです。ここでも束ねられているだけの人間は物件化と同じで協議主体、責任主体として現れることができない。
 逆にアソシエーション過程は、束ねられた人たちがさまざまな危機をテコに、単に束ねられたあり方を脱皮して自覚的自治的に共同性を実現しようとする運動だと言えるでしょう。
 個人がバラバラになり、受動的消費者として、あるいは受動的に束ねられたものとして文句だけ言うというのは楽です。しかし麻原のあり方は信者のあり方であり、貨幣支配の在り方は我々自身の関係のあり方なのです。「アソシエイティヴに生きる」方向でわれわれ自身の関係性の再構築が問われていることになります。
 ただしこれは原理論の話です。実践論的には「過程論的アソシエーション論」に立っています。全てを一挙にアソシエーション化するという主張はある種の理念主義です。むしろアソシエーション化不能の外部・現実を不断に認めなければなりません。また市場や権力社会や前近代的共同体のような脱アソシエーション化する力が常に同時に働いていることも前提して考えるべきでしょう。これらと対抗的に併存し、脱アソシエーション化と再アソシエーション化を繰り返しながら、ヘゲモニー(主導性)やドミナンス(規定性)を争っていく永続的な闘いであると考えたほうがいいと思います。
 思想家の鈴木正さんはアソシエーション過程を「賽の河原の石のように積んでは崩れまた積んでいく永続的過程である」と表現していますが、自分達が責任主体として協議し協働をしながら、誤りも犯し、自己批判しながら再び原点に戻って再出発する、こういうあり方が「アソシエイティヴに生きる」現実の姿でしょう。しかし諸アソシエーションは、それらがモラルの高さと普遍性をもつ限りにおいて、強いメッセージ性や波及力をもつことも忘れてはなりません。


前衛的アソシエーション


鵜戸口 脱アソシエーション化する力が常に働いている中で常に再編を試みるという試みを「ノマド」という発想として語っている人たちがいますが、具体的にはどのような運動形態があるのでしょうか?


田畑 社会学者の佐藤慶幸さんはアソシエーションを「目的」によって経済的、政治的、宗教的、教育的、保健福祉的、学問的そしてリクリエーション的に分類しています。また機能によって体制維持的と体制変革的、表出的と手段的に分類しています。お尋ねの点はおそらく「体制変革的」で「表出的」でもあるような、つまりアソシエーション過程を決定的に前進させる実践的中心環となるような「前衛的」アソシエーション形態は何かということでしょう。〔カット〕渋滞する高速道路
 私は歴史過程としてアソシエーションを見ようとするので、運動形態は共時的に考えても通時的に考えてもきわめて多様と考えています。
 通時的に見ますと、国家にかかわってNPOやNGOや緑の党など、企業にかかわって労働者協同組合やコミュニティーユニオンなど、市場にかかわって消費者運動や協同組合ネットや地域通貨(LETS)など、家族や地域社会にかかわってヴォランティア・ネットや文化スポーツクラブや子育てネットやセルフヘルプ・グループや協同ハウスやオールタナティヴ・グループなど、が比較的に注目されています。また地域でこれら経済的・政治的・生活的・文化的な諸アソシエーションを実践的に結合しつつ、対抗ヘゲモニーを構築することが、多くの活動家たちによって目指されています。
 日本の運動の現実から出発してあえて中心環を言えば、これら諸形態に共通するアソシエーションの論理を自覚化し、国家、企業、市場、家族、地域社会といった現存諸システムの再編過程に一定の方向性を与えるということだと思います。

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