2001年 5月25日
通巻 1077号

 この5月、奈良奥吉野から和歌山奥有田の山間部を1週間ほど回ってきた。1953年当時紀州大水害で1,000名以上の死者、行方不明者を出した地域だ。大阪の民水対(民主団体水害対策委)から延べ2,000名以上の救援隊が送り込まれた。私もその一員だった。

 今回の私の旅の目的は48年後の現在、村人たちの中に救援隊や工作隊がどのような印象で残っているか、また、山村の過疎と荒廃が進む未来をどのように考えているかを見届けるためであった。自民党長老村議(10期)と共産党女性元町議(11期)に会えた。いずれも「あのときは助かった。感謝している」と歓迎された。

 私の訪問が村で話題になったのか、大阪に帰って突然元気な男性の声で電話がかかった。「懐かしい。当時中学生やった。救援隊から習った歌を今でも覚えている」とロシア民謡を歌い出されて泣けてしまった。それにしても日本の林業は、この2年間で「完全に息の根が止まった」そうだ。山林労働者も5年後には姿を消すという。「これは自民党政治の責任や」と自民党の村議が言うのには驚いた。

 小泉「改革」には荒廃する山林、山村の「救済」はない。そればかりか日本人の意識の中にもない。日本の自然環境保護の取り返しのつかない手遅れを感じた。(F)

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