【短期連載】脱暴力を呼びかける(1)

私と暴力との出会い

男のための脱暴力グループ 水野阿修羅

2003年 6月5日
通巻 1146号

男らしさへの憧れ

 私はいま、メンズサポートルームの「男のための脱暴力グループ」のスタッフをしている。この活動の報告をということでしたが、まず私自身がこの活動をはじめるにいたる経過から述べてみたいと思う。
 私は1才の時、父親が病死したため、母親と暮らしていた。母親の職場(炊事婦)で出会う人は女性ばかりだったためか、小さい頃から「男らしさ」にあこがれていたのだが、スポーツが苦手で、本ばかり読んでいる子どもだった。中学1年の時、女の子と仲良くしていのるをからかわれて初めて性を意識するようになったほどで、小学生時代は性を意識していなかった。
 病院に住み込みだったのだが、入院患者の中に左翼の人がいて、その関係の本を借りて読んだりしていたが、自分自身は右翼だと思っていた。家の貧しさを社会のせいと思わず、「金持ちになりたい、平等は嫌だ」と思っていたのである。
 それは、母親から、父親の病気の遠因に旧満州時代に「八路軍」(中国共産党軍)に裸で連行されたことを繰り返し聞かされていたことや、シベリア抑留生活を経験した知り合いがいたこともあって、「共産主義は怖いものだ」と思っていた。
 男らしさへの憧れから、高校時代に柔道部に入ったりしたけれど続かず、同級生の左翼学生と論争する中で、「一度デモに行ってみないか」と誘われ、「経験しないで批判するのもおかしい」と思い、学生服を着たまま参加したのが、1965年の日韓条約反対闘争だった。ちょうど学生運動が一番低迷期で、参加者も少なく、雨の中だったうえに機動隊にどつきまわされたショックでカゼをひき、1週間寝込んでしまった。

左翼ゲバルト闘争

 これが国家権力を考えるキッカケとなった。マルクスやレーニンを読むようになり、我が家の貧困に理解がいくようになって、右から左への180度転換が私の中で起こった。高校時代はノンセクトとして、あらゆる党派の人とつきあったのだが、大学に入って先輩の勧めもあって、「社学同ML派」(社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派)というところに所属した。この派は新左翼の中でも極少数派だったが、毛沢東に近づく中で急激に勢力を伸ばし、中国派から支援を受け、「鉄砲から政権が生まれる」とばかりに急激に武装化しようとしていた。
 1968年の10・8羽田闘争に参加した私に、角材が渡された。「これで機動隊を殴って突破するのだ」と言われた。私は「こんなもので人を殴ったら死んじゃうよ、出来ないよ」と思った。しかしデモが始まり、後ろからついて行くと、私たちの先頭部隊にけ散らされ逃げ後れた機動隊員が、あちこちに倒れているのを見ると、恐怖心はなくなっていた。ところが、すぐに応援の機動隊員によって逆襲された私たちは挟み打ちに合い、私も頭を殴られ、病院に行く羽目になった。
 このすぐ後には10・21新宿騒動事件というのもあって、一気に私は「ゲバルト闘争」と呼ばれるものの中に放り込まれた。
 ちょうど同時期におこっていた「日大民主化闘争」の中で、大学が雇った暴力団右翼とも実力で対決する時だったので、私の中の恐怖心や罪悪感はふっ飛んでしまった。
 「内ゲバ」でしょっちゅう死人が出はじめるのもこの頃だったと思う。「自分が正しい」と思ったら、暴力で人を従わせるのに何の躊躇もなくなった。そこにレーニンや毛沢東のことばが利用された。「力のない正義は勝てない」「弱者の暴力と強者の暴力は違う」という具合だった。

釜ヶ崎/暴力団との闘争

 69年1月の東大闘争で負傷した私は、治療のため横浜中華街で療養させてもらい、回復後、関西にまわされたが、弱小党派のくせに中核派と対抗したため、内ゲバの標的にされ、皆で釜ケ崎に逃げ込んだ。ここで共同生活をしながら、再起をめざしている時、70年安保にすべてをかけたML派は解体してしまった。反対する人は新しい党派をつくったが、釜ヶ崎で始まった労働運動に飛び込んでいた私は、フリーになったのを幸いとして、「暴力手配師追放・釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)」に全面参加していった。警察や学生相手と違い、相手はプロ(?)の暴力団だ。取り戻しつつあった恐怖心も何度かのこぜりあいの後の勝利でふっ飛んでしまった。
 労働者の就労の場である、あいりん総合センター1階を仕切っていた暴力団組長をみんなの力でつかまえ、謝罪させる中、警察が、彼を連れにきた時、すんなりと渡したことで、1年後、私たちが彼への暴行、傷害で逮捕され起訴され、判決は有罪、懲役6ケ月。執行猶予付となったため、私は刑務所に入っていない。
 この闘争の結果、ヤクザの暴力に黙らされていた労働者が、初めて権利を主張できるようになった。「警察や裁判はあてにならない」と考えていた人々に、「正義」は力なくしては意味をなさない、ということを実感させた時でもある。山口組の末端組織の組事務所もいくつかつぶしたのだが、当時は、「よど号ハイジャック」や「連合赤軍」があり、山口組もわれわれの力を過大評価していたのか、弱者の反抗に敬意を表したのか、上部団体は出てこなかった。
 私の考えでは、警察は両方がケンカして両方ともつぶれるのを狙ってしたような気がする。
 この闘争の中で、私には同棲中の彼女がいたのだが、運動に夢中の私は、彼女のラブコールをうっとうしいと考え、男たちの方につき合いの重点をおいたため、彼女は私から去っていった。
 力に自信をもった私は、だんだん論議することがめんどくさくなった。東京の山谷に行くと、論議ばかりして行動になかなか移らない。「やるかやらんのか、どっちじゃー」と口を荒らげるようにもなっていった。
 仕事も、港湾荷役から建設とびの仕事をするようになり、危険な仕事を進んでするようになった。お金がいいということもあったが「男らしい」ということと、「恐怖心」がないということが大きかったように思う。今ほど安全管理がうるさくない時代だったこともあり、安全帯も着けずに、50メーターの高さの鉄塔の上で作業してもぜんぜん恐くなかった。一方で人の死や、芸術にも心が動かされなくなっていった。「釜共闘」崩壊後、何をしたらよいか分からず、日本中を放浪したりしたが、結局、釜ヶ崎に戻ってきたのは、生半かな刺激では満足しなくなっていたからだろう。
 パチンコとセックスと異文化(主に朝鮮文化)の中で「自分探し」をしていた時に出会った今のつれあい(中野マリ子)によって、自分を変えることを求められた。私が暴力による威圧をしようとしても、逆に反発する彼女と、どんな関係をつくっていったらよいのか、全くわからない。私の中の「男らしさ」の中には、「女をコントロールできない男は情けない」といった規範があった。
(つづく)

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人民新聞社

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