『オールドパンク、哄笑する』

チャールズ・ブコウスキー 著(鵜戸口哲尚 訳)
/ビレッジプレス・2600円+税)
/評者・下村俊彦

2001年 9月5日
通巻 1086号

 ブコウスキー晩年の短編集である。酒と女と競馬の不良じいさんは、ここでも悪態や罵詈雑言をまきちらしながら走り続ける。煤煙や騒音をまきちらす愛車のポンコツ・フォルクスワーゲンさながらに。
 訳者あとがきによれば、彼の一貫したテーマは「労働の拒否であり、搾取関係であり、人間関係の根底に存在する暴力であり、屠られた愛である」。労働の拒否。70年代ヨーロッパのアウトノミア運動のなかでさかんに用いられた、言葉の本来の意味でラジカルなスローガンだ。しかし、いまやこのスローガンは資本の側に横領されつつある。世界をかけめぐる莫大な投機資金に比べれば実体経済の裏付けのある取引量など微々たるものであるという事態になり、貨幣の抽象性・流動性をとことん押し進めるフローの経済はますます「労働」と縁を切ろうとしている。あろうことかヤツらはブコウスキー以上のバクチ好きだったというわけだ。
 まずい。このままではマルクスの言う「物質的労働の彼岸」に到達するのは我々ではなくてヤツらのほうではないか。てなことを考えていたかどうかは知らないけれど、とにかく彼は「たかがメシを食っていくためぐらいで、どれだけたわごとを聞かされなきゃならねえんだ?」というふうに生き、そして「クソ仕事」をしながら「最低限食っていくために何年も何年も人生を棒に振っていく」人たちの側から書いた。
 下層階級の生活を描いた、というのではない。そんな社会派的小説ならほかにある。そういう文章がほとんどの場合それほどおもしろくないのは、結局下層階級をネタに書き手の側の思想やら認識やら下層についての紋切り型のイメージやらを読まされることになるからだ。対象としての下層と書き手のスタンスの違いが書き手の側の民主主義的良心で埋められていたりしたら、おもしろくないどころの話ではない。「民主主義とか機会均等に関して、あれだけくだらないことをさんざん教えられてきたが、あれはただみんなに大邸宅に放火させないためだけだったのだ」というような回収の仕方に手を貸しているようなものだ。
 矢部史郎が断定的に言うように「マイナーを記述してはならない」。民主主義がマイナーを救うのではない。そのように発想したらそこにはすでに代行主義的腐敗の芽があると言うべきだ。そうではなくてマイナーが民主主義の中味を検証するのである。
 ブコウスキーの文学はマイナー自身の記述である。あくまで酔っぱらいでバクチ好きの「自分自身」があるだけであって、書くときにいきなり「作家」に変身したりはしない。要するに生きることと書くことの間に乖離がない。この荒っぽい率直さは確かにパンク・ロックの歌詞に通じるものだ。ただ、パンクの歌詞が反抗的自己への自己陶酔に陥りがちなのに対して、彼はまず「クソッタレ」な底辺生活者である自分自身を笑いの対象とする。例えば、『俺は政府をひっくり返したかったけど、俺にひっくり返せたのは誰かのかみさんだけだった』(1968年作の詩のタイトル)という具合。
 一億で総懺悔してみたり総中産階級をしてみたり。そして今度はみんなで小泉支持。こんな国でこそ何ものにも束ねられずに「自分自身」であり続けたブコウスキーはもっと読まれて欲しいものだ。市場主義やナショナリズムの夢に酔っぱらうくらいなら、単に酔っぱらっていたほうがはるかにまし。小泉や石原や新しい歴史教科書を作った人たちのようなおぼっちゃま右翼のナルシシズムに対して、正しい酔っぱらいはブコウスキー的哄笑でもってこたえるであろう。(S)

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