略年譜

アブ・アリ・ムスタファ議長の人生

2001年 8月25日
通巻 1085号

>>  PFLP声明

◇アブ・アリ・ムスタファは,1955年に全アラブ民族運動に参加、アンマンでアラブ国際協会のメンバーになった。ヨルダン・イギリス条約の取消しとイギリスの将校をヨルダン軍隊から追放するよう要求して、仲間・同志と共にヨルダンの政府に立ち向かった。
◇1957年4月、彼は捕らえられて、数カ月投獄された。それは、ヨルダンの議会が解散し、スレイマン・ナブルシ政権が崩壊した直後であった。政党活動は禁止され、アブ・アリは多くの仲間と共に再逮捕、軍事法廷に送られた。5年の判決を下され、東ヨルダンのジェファー刑務所で服役。
◇1961年刑務所から釈放された後に、アブ・アリ・ムスタファは全アラブ民族運動の政治活動を続け、ヨルダン川西岸・北地区の責任者となった。彼は2つの組織(1つは公然の、もう1つは、地下の組織)を設立した。
◇1966年にムスタファ氏は、全アラブ民族運動を弾圧するためのヨルダンの政府の大規模な掃討作戦で、再び捕らえられ、裁判なしで、数カ月間ヨルダン・ザルカ刑務所で服役。
◇1967年戦争後、パレスチナ解放人民戦線創設の際にジョージ・ハバシュ博士(初代PFLP議長)に合流した。彼はパレスチナの中のヨルダン川を通る最初のコマンドを導いて、PFLPの地下本体を形成し始めた。彼がヨルダン川西岸に隠れていた間、イスラエルは空しく彼を捜し求めた。
◇数カ月後、彼は秘密裏にヨルダンに戻った。ヨルダン川西岸のPFLP責任者を努めると共に、1970年9月のアンマンでの戦闘と1971年7月のアジュンの戦闘を含む期間PFLPの軍事部門の責任者を務めた。その後、彼は隠密にレバノンに向けて発った。
◇1972年、PFLP第3回全国大会において、ムスタファ氏は副議長に選出された。
◇1987〜1991年、パレスチナ解放機構の中央委員会のメンバー。
◇2000年7月におけるPFLP第6回全国大会では、PFLP議長に選出された。

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