「日本赤軍」の解散について

丸岡 修/2001年7月28日

2001年 8月15日
通巻 1084号

【編集部より】
 この丸岡修さんの投稿は、「解散資料集」に掲載予定の内部向け文章として執筆されたものですが、「自由に扱ってもらっていい」との申し出を受け、論議の一環として掲載したものです。

1、積極的意味での「解散」

 解散自体に、私は何ら異議も違和感もない。私自身が数年前から「武闘の停止を宣言せよ、日本赤軍の名称を変更せよ、公然合法の部隊を登場させよ」と広言してきた。厳密に言えば、私の言っていたのは「解散」というよりも「再編」であったが、名称の変更という意味では「日本赤軍の解散」ということではある。積極的意味における解散としてだ。その表明は、組織の代表である重信同志の被拘束以前になされるべきであった。遅きに失した。

2、消極的意味での「解散」

 残念ながら、今回の重信同志被拘束をめぐる問題の後では、消極的意味でも解散以外にはない。重信同志が犯した誤りは、そのまま私たち旧日本赤軍の誤りである。


(1) 誤りの第一
 誤りの第一は、重信自身のモットーであり、私たちのモットーでもあるはずの「最悪事態を想定して最善を尽くす」の結果の被逮捕ではなかったことである。
 私自身の1987年の被逮捕の教訓として、「順調に計画が進んでいくうちに、公安当局の力を過小評価するようになり、最悪事態に備えた活動ができていなかった」があった。私のときの不幸中の幸いは、自身と自組織への被害はもたらしたものの、ガサ入れ被害者たちのガサ理由になる「証拠」を公安当局には一切与えなかったことである。しかし今回は、私たちの初歩的な誤りから無関係の人々へのガサですら、敵に口実を与える物が多く押収されている。そのことに敏感な同志だったのに、どうしてかと思う。
 1995〜97年にかけて世界各地で多くの同志たち(党員及び非党員)が拘束された。96年までの敗北の教訓から、私は1998年に救援会誌の『ザ・パスポート』に次のようなことを書いた。「他人の失敗を他人事とせず、自身の戒めとせよ」、「白色地区で赤色地区と同じような活動をすることは許されない。白色地区でフロッピディスクに重要文書を残すなど言語道断である。同じ誤りを繰り返すならば、我々は革命組織の看板を降ろすしかない」等。その誤りを繰り返した。正に、革命組織の看板を降ろすしかないのである。(私たちは、レバノンでさえ、イスラエル軍の奇襲があるからとして「赤色地区」とはみなさず、中間地とみなしていたはず。)


(2) 誤りの第二
 誤りの第二は、使ってはならない手段をとってしまったことである。それは、入院「障害者」の身分利用である。重信自身は知らなかったようではあるが、少なくとも担当者は知っていたのであり、それは取りも直さず個人の責任というより、私たち組織全体の責任である。むろん、代表である以上、重信自身の責任も逃れえない。
 「人民性を党性とする」、「党は人民(の闘い)を支援する」等は、「赤」の口先だけの建前ではなく、実践のモットーであるはずだ。その基準が同志1人1人に徹底されていたならば、使っていいか悪いかの答えは明白。党員1人1人の行動に示される判断基準が、組織の思想を示す。そうである以上、「赤」自身がその存在意義を自ら否定する行動をとったという1点においても、私たちに残された道は解党的出直ししかあり得ない。

3、今回の事態で総括すべき点

 私が1987年に、泉水同志が1988年に、そして私たちとは無関係だが、1988年に菊村氏、「よど号グループ」の柴田氏が拘束される事態が続き、『人民新聞』が1988年5月25日号で批判特集「日本赤軍及び共産同赤軍派の諸君へ」を組み、11月頃まで投書等が続けられた。編集部からの批判の趣旨は、次のようなものであった。
(1)1987年から不用意に逮捕されすぎ。
(2)その結果多くの人々が関係ないのに権力から被害を受けた。
(3)日本革命は自分たちが指導しなければならないという思い上がった考えを持っているのではないか。
(4)その性急さと傲慢さは日本人民の地道な闘いを無視している。
(5)そういったあり方を自己批判した77・5・30声明の趣旨に反するのではないか。自らの利益より人民の利益を優先させるべきだ。
 当時の私はまだ接見等禁止中であったが、弁護士を通して回答を寄せ、その文章も8・5号から9・5号にかけて3回連載された。しかし、それはあくまで言葉でしかなく、「赤」の実際の行動によって、上記批判に応える義務が私たちにはあった。日本革命を唱える以上、私たちが国内に活動拠点を作ることは必然であるが、いざそれが発覚したときの弾圧を予測した態勢を組まねばならない。私たちに実際に関係する者たちへの波及はある程度の覚悟をせねばならないが、無関係の人々や運動団体への被害の拡大を防ぐ努力は絶対的に必要なのである。この12年前の教訓を私たちが生かしていれば、重信被拘束はやむをえないとしても、被害の無限的拡大を防ぐことはできたはずだ。
 私たちに対する批判を私たちの変革の力にせねばならない。

4、解散声明について

 党外の同志及び友人たちの一部から、「解散声明が重信氏個人の声明として出されたが、重信私党ではないか」という批判が出ている。「人民革命党の規約には被逮捕者の権利停止規定があるのに、重信が出すのはおかしい」という友人もいる。


(1) 重信の独断か否か
 たとえ組織代表であっても、組織つまりメンバーの総意を無視して代表個人の意志だけで組織を解散させたり、路線転換させることはできない。しかし、獄中同志たちからの私への伝言によれば、連絡をとれる範囲での皆の総意として用意されていたが、早急にという獄外同志たちからの要請で、重信が宣言する形をとったとのことである(私は刑の確定時に、諸決定はすべて同志たちに委任すると伝えている)。重信も声明の中で「同志たちの意志として宣言する」と述べている。また社会的には、私が解散声明を出しても(1997年に3人連名でレバノン問題の声明を出したが、ほとんどのマスコミに無視された)ニュースにはならないが、重信が言えばニュースになる以上、世間への告知として重信が宣言するのは妥当、と私は考える。
 すでに組織としては、レバノンで拘束された同志たちが帰国させられた昨年の3月以前から、「武闘停止の表明、名称変更、公然化」を決定していた。私が数年前から「1日も早く」と提起していたことでもあった。そして、その発表時機が遅れていたが(重信被拘束以前にしておくべきだったのだ!)、重信によれば今年の春に宣言する予定であった。その前に重信が拘束されたのである。内部的にも対外的(社会的)にも、彼女が「赤」の代表とされており、拘束によって路線転換の公表が遅れてはならないはずである(新組織の旗揚げは拘束によってまた延びたようである)。そうである以上、重信が拘束されても思想転向しておらず、また、拘束からそれほどの日数が過ぎておらず、かつそれが獄外の「赤」同志たちの総意である限り、そして重信が対外的には組織の代表としてある限りは、組織自体に障害はない。


(2) 規約の規定について
 友人たちは、前述の規約を「獄中の者が獄外を指導してはならない」とするもので規定としては正しい、と言う。だから重信が個人名で宣言するのはおかしい、と。実は、それは私たちにとって2番目の根拠であり、1番目の根拠は違う。少なくとも私が1987年に拘束されるときまでの「赤」の規約によれば、である。
 最大の根拠は、同志をあくまで信頼するとした上で、日本だけでなく世界の階級闘争の厳しさ(拷問の激しさ、精神的肉体的思想的攻撃)を前提にし、「被逮捕は敗北の1歩」と規定し、「転向」の可能性もありとして、「獄中メンバーは党の決議には関与できない(党員としての義務はあるが、権利は停止)」としたものである。出所後1年間は入党希望者と同様の扱いとするのも、同じ根拠からだ。
 そして第2の根拠が、一時の旧赤軍派のように獄中政治局員たちが獄外を指導するあり方はとらないとするもの。決して獄中からの意見表明や助言を禁じたものではない(指揮権はない)。むしろ党員の義務として、獄中にあっても獄外の諸運動に積極的に参加し発言するとした(「保安原則」に規定)。重信も指導指揮を禁じられるが、元代表としての意見表明権はあるし、同時にそれまでの代表としての義務を果たすべきものとしてある。


(3) 「赤」の組織原則
 私は人民革命党の規約を未だ知らないが、1991年までの規約では、「赤」は 主義的政治軍事組織として「民主集中制」をとってきた。日共と同じく、それに変更はないと思う。少数は多数に従い、下部は上部に従い、党員は決定に従う原則と共に、党の代表や中央機関は党内選挙で選出し、代表に対する不信任案提起にも制限はない。
 綱領、規約、総路線は重信1人で決めたものではなく、各委員会で討議した上で決議案を作成し、最高決議機関としての党大会で決議したものである。定期的選挙で選ばれた指導機関に指導権限が与えられ、日常的な諸決定は指導部に委ねられるが、重大な決定、路線転換などは党大会で決議されなければならない。
 1979年以降、党内民主主義が強調され、同志たちのカードル信任の判断基準の第1は、「普遍化能力(現場党員への政治路線や必要情報の共有化能力)」であった。重信に独裁的権限はなく、今回の宣言は代表としての責務による。

(4) 「宣言」批判にも理はある
 形式上問題ないと書いたが、一方で民主集中制が人々に理解し易いものではなく、反対の人々は多い。重信が獄中も含めた「赤」全体の意志を代表して代弁している点を強調すべきであったかと思う。
 1997年に、丸岡、浴田、吉村の3者名で出したように、重信を代表として「赤」メンバーとして公然化している獄内外の同志たちとの連名での「解散宣言」とした方が分かりやすかっただろう。
 昨年11月の文章で私は、接見解除されている同志、獄外の同志の4名が中心になり、接禁中の同志たちとも確認して共同声明を出したらどうか、と書いたが、具体的に提案すべきだったかと思う。ただし、獄中から出す以上、獄外同志たちの総意の下で、赤軍の解体、再編は既定の方針であったという明記が必要である。私たちにとって問題がなくても、人々がどう受け止めるのかという側からの発想が私たちには必要と思う。

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