「つくる会」教科書問題

「つくる会」の教科書発行・採択をめぐる動きは
歴史教科書の「国定化」と捉えるべき

大今 歩 

2001年 7月5日
通巻 1081号

 今年4月、「新しい歴史教科書をつくる会」の中学歴史教科書が137ヵ所の修正を経て文部省の検定を合格した。この教科書をめぐって国内外でさまざまな議論が生じている。錯綜した議論の中から私なりに論点を取り出してどう考えるべきかを示したいと思う。私はこの教科書の発行および採択をめぐる動きを、歴史教科書の「国定化」として捉えるべきだと考える。いかなる意味で「国定化」か。
 まず第一に、「つくる会」の歴史教科書は戦前の国定教科書の「国史」と同じく、学問と教育は別という立場に立って、歴史研究によって得られた事実を覆い隠していることである。
 この教科書を発行する目的について「つくる会」西東京支部が全戸配付したビラは、次のように述べている。
 「市民のみなさん、小中学校の社会・歴史の教科書を手にとってご覧になられたことがありますか。『日本はアジアを侵略し、たくさんの人々を虐殺した悪い国だ。日本人は恐ろしい人間だ』―このような虚偽の意味内容がいたるところで散見されます。これで子供たちが、祖国に誇りを持てるでしょうか。教育とは民族の誇りを教えることです。…(中略)…私たち「歴史教科書をつくる会」は日本の文化と伝統に根ざした、日本人として生まれたことに喜びと誇りを持てる教科書を子供たちに手渡すことを目的としています。」
 子どもたちが祖国に誇りが持てるよう、侵略や虐殺の事実を隠そうというのである。
 このことについて、高校日本史教科書の検定を違憲だとして闘ってきた家永三郎氏の、1969年「第2次訴訟第1審における本人尋問を手がかりに考えてみたい。

 

きれいごとだけ並べた上っ面だけの歴史

 「私どもが戦前に受けた教育では日本史というのは、非常にきれいごとだけ、まったく社会的矛盾とか、日本の犯したあやまちとかいうことに触れないで…(中略)…とにかくきれいごとだけ並べた上っ面だけの歴史を学んできました。…(中略)…戦後の教育はそういうものであってはならない。我々はそういう目隠しされた教育を受けてきたために、あの悲惨な「15年戦争」の悲劇をくい止めることができなかったわけであります。」
 家永氏がいう「日本の犯したあやまち」に触れないで「きれいごとだけ並べた上っ面だけの歴史」を「子供たちに手渡そう」という意味で、「つくる会」の歴史教科書は書かれたといえる。
 文部省の検定を経たのちも、「つくる会」教科書は「きれいごとだけ並べた上っ面だけ」の内容である。一つだけ人物コラムとして登場する「昭和天皇――国民とともに歩まれた生涯」を例にあげて考えてみよう。
 「1945(昭和20)年8月、終戦のときであった。ポツダム宣言を受諾するか否かで、政府や軍の首脳の間で意見が分かれ、聖断(天皇が下す判断)を求められた天皇は『これ以上戦争を続けることは出来ないと思う。たとえ自分の身がどうなっても、ポツダム宣言を受諾すべきである』と述べ、戦争は終結した。」
 天皇の聖断によって戦争が終結したというのである。しかし、陸海軍の統師権を掌握する天皇が、軍部の提供する情報にもとづいて日米開戦の決定を行い、その後の戦争指導にも主体的に関与したことには一切触れない。また、「聖断」は沖縄戦や広島・長崎への原爆投下後のことで、「遅すぎた聖断」であり、しかもソ連参戦によって危うくなった天皇制存続のためのものであった。つまり、国民を守るためでなく、天皇が「自分の身」を守るためのものだったのである。
 このような「日本の犯したあやまち」(昭和天皇の開戦決定)に触れない「きれいごとだけ並べ」た「上っ面だけの歴史記述」(昭和天皇の「聖断」を祀りあげる)は、古代や近代の叙述を中心に散見される。このように「つくる会」の歴史教科書は、戦後の歴史研究によって得られた成果を覆い隠しており、学問と教育は別という戦前の国定教科書と同一の立場に立っている。

 

検定制度こそが害悪
―教科書は自由発行・自由選択であるべき

 私が「つくる会」の動きを「国定化」と捉える第二の理由は、教科書の採択から教員を締め出し、教育委員会単独で選定することを強力に推進していることである。「つくる会」の藤岡信勝氏らは「教師に教科書採択の権限はない」「教科書を採択する権限は(中略)教育委員会にある」として学校票制度や教員の代表が採択委員会に参加する現行制度の廃止を(求めて)地方議会に請願して採択させている。
 この動きについても前述家永氏の本人尋問を手がかりに考えてみたい。
 「自由発行・自由採択のもとでは、多少の弊害が短期的にないとは言えません。しかし、それは国家が検定を行うことによってもたらされる害悪に比すれば、言うに足りません。なぜならば、仮に1人の執筆者、1人の教師の不適切な結果生じた害悪は、その範囲にとどまります。国の検定権の行使は全体にわたります。しかも、個人のあやまちは相互批判によって是正されますが、権力によるあやまちはこのような裁判を開いていただいて、莫大な労力と費用を投入しなければ、それは回復できないのであります。現に私は、戦前の国家権力によって画一化された歴史教科書によって…(中略)…終生根治できないような大きな後遺症を受けているのであります。」
 検定制度こそが害悪であって、教科書は自由発行・自由採択であるべきだというのである。「つくる会」が歴史教科書を発行するのは自由だ(「つくる会」教科書を検定合格にした政府は許せないとの議論があるが、私はその立場には立たない)。しかし、その内容については相互批判によって是正されねばならない。
 また、教師による自由採択の制限を強化しようとする藤岡氏らの誤りは明らかである。教科書を用いて生徒を日々教えるのは教師であるから、教師が教科書を採択するのは当然のことである。実際、1965年、「教科書無償化」にともなって現行の広域採択制度が導入されるまでは、教科書採択権は小中学校の教師にあった。ところが、藤岡氏らは広域採択制度の中でわずかに残されている教員の意見表明でさえ締め出そうとしているのである。

 

地方議会決議の圧力で

「つくる会」教科書を選定するように仕向ける


 「つくる会」の教科書は前述のとおり歴史的事実を覆い隠す内容のため、中学校の教師にはさっぱり人気がないと予想されるから、地方議会決議の圧力によって都道府県教委が「つくる会」教科書を選定するよう仕向けるという藤岡氏らの魂胆は見え透いている。しかし、多くの地方議会で彼らと連動する政府与党が多数をしめている現状から考えると、彼らの動きは教科書の「国定化」につながりかねない。
 このように、私は「つくる会」の教科書発行とその採択をめぐる動きを歴史教科書の「国定化」と捉えて、これに反対する。

(終)

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[ 参考 ]

歴史教科書の「国定化」もくろむ歴史改ざん派 (1076号)

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