小林よしのり著『戦争論』は、どう読まれているのか(2)

「公」という化け物に引きずられるパレスチナ

パレスチナに平和を神戸の会・一ノ瀬輝博

2001年 6月15日
通巻 1079号

 『戦争論』の349ページ(第20章「個と公」)に次の文が出てきます。
 《ユダヤ人が2000年かけてエルサレムを奪還し国をつくったということをどう考えているのか?》
 これは、「国家や共同体への帰属意識」「公が個を支える」という文脈の中で出てきていますから、《ユダヤ人はディアスポラ以降、さまざまな迫害にあいながらも、ユダヤ人共同体という強烈な「祖国」「民族」意識を持ち続け、ついには自らの手でイスラエル建国を勝ち取った》という意味に解釈するところなんでしょうね。「だから日本人も個を越えた公のために働くことに自覚的であるべき」という形で話をもっていくための伏線です。
 48年のイスラエル建国は、理不尽な差別と迫害に耐え忍び続けたイスラエル人(*)が、心の故郷であるエルサレムの地を思い続け、彼らの悲願としての、エルサレムへの帰還―ホームランド建設という物語(シオニズム)の「ハッピーエンド」ではありません。
 シオニズムはそういったイスラエル人の心象的なものを取り込みつつも、イスラエルの人々を差別し、迫害したヨーロッパの列強(帝国主義)と結託した、裏返しとしての帝国主義/民族排外イデオロギーの中身を持っています。
 ナチス政権下のドイツで、弾圧に苦しんでいるイスラエル人の救出よりも、イスラエル国家建設の政策を優先させたことは、そのナチスドイツに反対して闘っているイスラエルの人々を激怒させました(確か哲学者のハンナ・アーレントも、42年のビルトモア綱領に反対してシオニズム運動から離れたと記憶しています)。まあ、公が個を支えるという主張からすれば、ナチスに売り渡された形となったイスラエル人の犠牲も美談と化してしまうのかな?
 建国後、シオニズム国家としてのイスラエルがやってきたことは、皆さんよくご存じの通りです。戦争と占領。その中で多くのパレスチナ人の生活が破壊され、その悲しみと苦しみは今も続いています。
 イスラエル国家の社会平和と安定は、構造的にパレスチナ人の犠牲の上に成り立っています。そのイスラエル建国と運営にはシオニズムという物語が必要だったのですが、それは結果的にイスラエル側自らの身を削っています。故・ペレス首相が「土地と平和の交換」として選択した和平路線も、かねてより指摘されていた矛盾が、悲劇的な形で噴出してしまいました(今も、続いている!)。
 難民の帰還問題とか、入植地問題、水資源問題…などなど、和平破綻の原因となっているものがシオニズムが作り出してきたものであることははっきりとしています。つまりイスラエルにおける「公」の論理(=シオニズム)は、イスラエル自身にとってすら前途ある何ものも提示できていないということではないでしょうか?イスラエルがつくりだした状況は、極度の緊張と恐怖を生み出さざるを得ません。石を投げているパレスチナの子どもに、銃を持って対応しているというのは、イスラエル兵の中にその言いようのない「恐怖」があるということに他なりません。
 イスラエル首相選のたびに、対パレスチナ政策が、和平路線だ、いや強硬路線だと振り子のように揺れますが、少なくともそのシオニズムという物語の解体を問題にしなければ、果てしない悲劇と消耗を繰り返すだけではないでしょうか
 一枚岩のような団結を誇るイスラエルにおいても、自らの手で、この「公」の論理を問い直そうとする動きはもちろんあります。兵役を拒否して(イスラエルは国民皆兵)反戦・反軍隊を叫ぶミュージシャン。 の討論番組で「もし私がパレスチナ人に生まれていたら、武器を持って戦っていただろう」ということを公言した政治家。同じくイスラエル建国記念のイスラエルの歴史を振り返る番組で、パレスチナ人の存在に初めて言及したこと等々…(いわゆる「敵」に囲まれたイスラエルの人々にとって、自らの歴史を問い続けることのシビアさは想像を絶するものがあります)。イスラエルの内部で地殻変動は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいるのかもしれません。
 シオニズム(=「公」)という化け物は、イスラエル市民(=「個」)の意志を越えて、彼らをとんでもないところに連れて行こうとしているのだと思います。「パレスチナ問題とは裏返しのユダヤ人問題である」とはよく聞く言葉ですが、真にパレスチナと対等での平和を深く追及しようとするイスラエルの人々も含め、パレスチナ和平から解放への根底的な連帯・協働を求めていきたいですね。


*イスラエル人―ユダヤ「人」あるいは「民族」という概念は、当のイスラエル(ユダヤ)の人たちの間でも何をもってユダヤ人とするのか、の喧喧諤諤の論議が続いていることからも分かる通りあやふやなものであるため、ここではイスラエル人という表記を使った。


(終)

▼小林よしのり『戦争論』はどう読まれているのか(1)

「劣等感を拭い去れた気がする」

「個人が崇高であることと、国家が崇高であることは、同じではない」

「『目から鱗』も『身につまされる』も皆無だ」

このページは更新終了しております。最新版は新ページに移動済みです。