小林よしのり著『戦争論』は、どう読まれているのか(3/3)

「目から鱗」も「身につまされる」も皆無だ

内野 まこち( 23才・男性)

2001年 6月5日
通巻 1078号

 「読むにつれ、ますますもって不愉快なマンガだ」―率直な感想を問われればこれ以外に答えようがない。笑い飛ばしながらページをめくっていくことも容易だが、ネームの逐一に感想や意見を述べていこうとすると、実にイライラが募る見事なマンガである。「戦争論」ということでいろいろと綴られているが、私にはその論≠ニやらが、「屁理屈とかイチャモンの類」というくらいの説得力に欠けるものとしか感じられない。作風に対する生理的な嫌悪感という身勝手な理由によって、このマンガをみて鼻をつまむ自分がいることはわかっている。しかし、それを差し引いても私には受け容れがたい。
 私にはそもそも「殺して解決・死んで解決」、「死んで償う」などという考え方がない。そして私の中にある公共性の感覚≠ノ照らし合わせてもない(あってはならない)。個にも公にもあってはならない。だから私は「殺して解決・死んで解決」「死んで償う」の徹底豪華版である戦争を絶対的に否定する。例えば、戦争という手段をとった(参戦した)時点で、結果としての戦勝国も敗戦国も関係なく悪を振るったという考えである。
 よしりん≠フセンソーロンを読まじとて、いや読めばこそなおのことこの感覚は変わり得ない。「『戦争』は『悪』ではない。『政策』である」「承認された暴力である戦争」などなど、このマンガに出てくる言葉にいかほどの説得力があろうか。個と公などという問い方をされて心を揺さぶられる読者も多かろうが、ただ「御国のために」と言っているだけとしか聞こえない。
 結局のところ、戦争≠ニくればそれは「スバラシイ業績・功績たりうる」としかいわず、個と公≠ニもちかけては「個を捨てて公のために死んでしまえることを賛美する」だけの芸当を、○○論などと気取って読む気には到底なれない。私には、彼の訴えに共鳴する部分は微塵もない。

(終)

 

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>> (2/3)「個人が崇高であることと、国家が崇高であることは、同じではない」

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