【シリーズ】臨界点からの反撃

「我々は、いかなる時代を

迎えようとしているのか」

鵜戸口哲尚

   

グローバリズムとポストモダン(2)

2000年 12月15日
通巻 1063号

■「鰯の頭も信心から」

 福祉制度も含めた日本の政治・経済・産業体制の戦前からの連続性を指摘した『1940年体制』の著者野口悠紀雄がバブルの渦中・直後に書いた『バブルの経済学』で次のように書いている。「もっと後になって振り返れば、バブルによってこそ日本経済は崩壊していたのであり、それが途中で終わったのがむしろ喜ぶべきことだとみなされるだろう。バブルが崩壊すると日本経済も崩壊するのではなく、逆に、バブルが崩壊してはじめて新しい経済発展への展望が開ける」(下線・鵜戸口)。そのはずであったのだが、周知のごとく、その後は日本版「失われた10年」のまま、今日に至っている。
 バブル期に日本経済を「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と持ち上げた同じ面々が、ほとぼりが覚めると IT革命を称揚し、マスコミがその音頭を取るのだから、責任も節操もあったものではない。
 一貫して責任回避路線をひた走る嘗ては世界に冠たる「鉄の三角同盟」と呼ばれた我が国の政・財・官界が、経済原理として「自己責任論」を展開し、ヴィジョンなき迷走を続け、景気回復のためと称して、すべてのツケを血税に転嫁し、リストラとダウンサイジングを強行しながら、あたかも「鰯の頭も信心から」しかないと言わんばかりに IT革命を称揚している姿は、もはや滑稽・愚劣を通り越し、醜悪かつ国民を愚弄している。

 

■国民国家の相対的衰弱


 行政改革を見せかけの省庁再編で糊塗し、あわよくば既得権益の温存のみならず権限強化を狙おうと姑息な眼差しを虎視眈々と投げかけ、一方では事実上国際公約に近い形で掲げた外国人の地方参政権取得を実現できずおどおどしている現下の政治権力とは一体何なのであろう。今、「鰯の頭」に帰依せんとする国民政権の神は「市場」であり、その背(せな)で泣いているのは「ナショナリズム」である。
 こんなナショナリズムなんて一体如何ほどのものだろうか 問題とすべきなのだろうか やはり、問題とすべきなのだろう。何故か 「自虐史観」を批判し、「国民教育」を称揚する議論はグロテスクとは言え、確実に広範な現状に不満を抱く年配層に浸透しており、現在の閉塞状況の中で日本の将来像を求めて悶々としている若い世代にかなりの浸透力を持つその他の新保守主義のイデオローグと複雑に共振し、一方では加藤典洋を筆頭とする団塊の世代のナショナリズムへの雪崩的なナイーブな傾斜の深まりとも合流する危険性は、悔り難いものがあるからである。つまり、左右のイデオロギー対立の軸が崩壊したと言われる今日、「左」はグローバリズムとナショナリズムに挟撃され、国民国家の相対的衰弱をまざまざと目前にし、己の主体的な位置を維持することが困難になってきているのである。言い換えれば、93年の55年体制の崩壊は、自民党単独政権の崩壊であるばかりか、野党陣営の求心力の崩壊でもあったのである。

 

■バブル待望論の悪夢


 この2、3年の間に、保守連立政権によって矢継ぎ早に提出され可決されていった数々の法案を大まかに見渡すと、グローバリズムに道を開くものと、ナショナリズム強化を企図するものとに大別でき、それを「危機管理」という膠(にかわ)で強引に接着している観がある。要するに、政治権力の狼狽が白日の下に晒されているのである。だが、野党はそれに対して、明確な対決軸を打ち出せずに、間隙を縫って利権を温存せんとする保守勢力の揚げ足取りに血道を上げている。
 財政赤字が年間予算規模に急接近するほど肥大化し、失業の実態が正確に自殺者数に比例し、少子高齢化が進み、世代間の連帯の絆を保障する枠組みが経済・文化面を初め屋台骨ごと揺らぎ、消費マインドが冷え込み、価値観がアトム化し彷徨する今、緊急に要請されているのは、明確な財政・経済政策と、それを保障する堅固な政策策定メカニズムの確立である。それに付随して、制度改革を急がねばならないことは言うまでもない。それは、この「失われた10年」の間、ケインジアンの政策処方と新古典経済学派の処方との間を振り子の如く揺れ動いてきた政治権力の軌跡を振り返ってみても、一目瞭然である。
 バブルの総括が不可避である。政・官・財と民間企業・一般市民を巻き込んでのユーフォリア(多幸症)であったバブルとは一体何だったのか、バブルによって何を失ったのか、日本はバブル経済に突入するしかなかったのか、なぜバブルははじけたのか、なぜバブルの後遺症から立ち直れないのか、などの問いに答えられなければ、戦後未曾有の不況の先例のない構造的特質を克服することができない。バブルを体験し破綻した国家はこれまでに数々あるが、問題がここまで深刻化し長期化した国は、史上類例を見ない。国民は、浮かれた後に奈落に突き落とされ、リストラ失業・経済スキャンダル報道・犯罪の増加の嵐の中で、金融ビッグバンだ、グローバリズムだ、 IT革命だと聞かされても、一体何が起こったのか訳が分からず、将来不安に脅え財布のヒモを締め、呆然と立ちつくしているのである。
 今、最も恐れられるべきは、政・官・財界を初め広範に、「バブルよもう1度」のバブル待望論がチラチラ見え始めていることと、このまま無責任体制のまま問題を先送りし続ければ、政府・銀行の債務を棒引きにすると同時に、庶民の懐を根こそぎにする、悪夢のハイバー・インフレが現実のものとなることである。

 

■ブラックホール=アメリカ


 バブル崩壊過程の1989〜1992年に、株式時価総額420兆円、土地等評価額380兆円、合計800兆円の我が国金融資産が失われた。これは対国富率11.3%だから、第2次大戦の物的損害の対国富率14%に迫るものであり、個人金融資産の六割を占める預金保有分720兆円を上回る。それに本年末のGDPの1.3倍に達する国と地方の債務残高合計645兆円も、第2次大戦突入時の水準にほぼ等しい。
 また、1992年〜1995年に景気対策の名目で6次に亙って政府がつぎ込んだ65兆円は、ほぼ為替レートの変動による為替差損に依って、あたかもブラックホールに吸い込まれる如く消えていっている。その後、本年末までに緊急経済対策費は、総額120兆円にまで達している。言うまでもなく、これはすべて税金で賄われているのである。
 一方、1995年からの銀行・ゼネコンを保護する対米雌伏の自滅的な低金利政策では、 GDPの2%に当たる年間10兆円の金利所得が、直接庶民の目前から消えて行っているのである。また、1998年の日本の対外純資産は134兆円だったが、翌年には85兆円と50%目減りしているが、そのうち30兆円は、円高とキャピタルゲインでアメリカに持って行かれている。
 バブルがもたらした経済及び経済メカニズムに対する破壊力はこのような凄まじいものだったが、その影響はそれだけだに止まらなかった。労働意欲にも破壊的な打撃を与え、一旦ギャンブル経済に走った企業の反公益的な体質は容易には正常に戻せず、企業に便乗し財テクに走った労働組合の失墜した信用も回復できなかった。そして、徹底した消費感覚を身につけた若者たちに与えた価値意識とマネー感覚は、ウラとオモテを巧妙に使い分けることを当然とする異様な人間形成をもたらした。
 このように、我が国ではグローバルな状況が、バブル崩壊・冷戦体制崩壊以後に、ITと金融が結びついた金融ビッグバンという形で訪れたという印象が強いが、日本経済が1980年代以降にたどってきた軌跡と、経済・通商・外交政策の錯誤の本質を捉えるためには、より大きな国際的な脈絡から、世界的な景気後退が訪れ、フォーディズムの蓄積体制が揺らぎ始め、アメリカのヘゲモニーの翳りが顕在化してきた1970年代初めのブレトン・ウッズ体制の崩壊に起点を求めねばならないだろう。

 

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人民新聞社

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