【書評】『2つのウリナラ

―21世紀の子どもたちへ―』の背景

蓮月

2000年1月25日
通巻 1033号

 「私も、もうまもなく旅立ちます」―十年以上前からこの言葉を繰り返してこられた池田正枝さん。従軍「慰安婦」問題、釜が崎の炊き出し、死刑廃止や反戦等々、それはもう様々な運動に関わってこられたことを、私自身十数年敬意の念をこめて見てきて知っている。
 「あのセリフ、十年以上前からずっと言うたはるんよネ」と、共通の友人で笑いあったものだが、彼女の社会運動の関わりに対する姿勢は、精力的でエネルギッシュで、まるで思いつめたかのようだった。
 現在の北朝鮮で生まれ、ソウルの国民学校で教員をしていた彼女は、6人の朝鮮人女子生徒を富山の軍需工場に送りこんだことから、日本人として自らの戦争責任を問いつづけてこられたのである。その彼女の半生が、聞き手・川瀬俊治さんを通してようやく1冊の本にまとめられた。

 校長は「学校の中でもこれは秘密です。他の方に言わないように。学級でもしっかり口止めして下さい」と念を押しました。そうして一番初めに言われた言葉を思い出します。「絶対、指名してはいけませんよ。あくまで、志願するようにもっていって下さい」

 富山の軍需工場に女子勤労挺身隊として朝鮮人女子生徒を送り込むということが、軍の指示で行われたのである。「あくまで、志願するようにもっていく」―この件に限らず、カルトの問題でも使われるのがこの手口だ。応募者には次のような特権があると説明された。米どころである富山でお腹一杯ご飯が食べられること。あこがれの女学校に行けるのだということ。富山には大きな病院が2つもあり、病にかかったとしても安心できるということ。映画館があり、毎週映画が観られるということ。
 時は、1944年、太平洋戦争の真っ只中である。そんな夢のようなことがあるはずもないのだが、それは今だからこそ言えること。彼女としては、そのような動員に「反対の気持ちが芽生えることすらなかった」のだ。それどころか、どうにも愛を感じることができなかった母(父の再婚相手)のもとからひたすら脱け出したかった正枝さんは、私も追いかけて行こう、とさえ思ったという。
 が、8・15を迎え、5人の女子生徒は帰ってきたものの、どの子も富山のことについて語らないのをみるにつけ、自分は何か大変なことをしたのではないかとだんだん思うようになった。1人が消息不明となれば、よけいにその思いはつのる。
 1991年、彼女はソウルでその1人の女子生徒と再会する。しかし、その後その人の娘さんから「もうこれ以上、母に会うのも、手紙を送るのもやめて欲しい」との手紙が届く。ソウルへきて百ぺんお詫びするよりも、実行することだ。日本でするべきことがたくさんあるはずだ、という内容である。「私は、このお手紙を宝物のように思っています」と正枝さんが手紙を見せて話されていたのを、私は覚えている。厳しいが、確かに的を得た指摘ではある。しかし、彼女が、事実命をはっての反戦を闘ってこられたのを、私、いや、回りの者たちは皆見てきて知っている。だからこそ、同著の出版も実現したのだ。
 昨年11月、お電話すると「私の命も来年ぐらいでしょう」と言われる。でも、正月にはまた元気な年賀状をいただき、ちょっとホッとした。正枝さん、もうこれ以上自分を責めないで。そしてもっと自分をいたわって、いつまでも私を励まし続けて下さい。 

        (「二つのウリナラ」・解放出版社)

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