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2014/11/18更新

「市民社会」から排除された人たちが集う街
「怖いけど必要な街、おもろい街」=釜ヶ崎を守れ

水野阿修羅

今、釜ヶ崎が橋下市長の「西成特区構想」の中で揺れている。「町内会」と称する地元や商売人は、自分の持っている資産を高く売り抜けたいか、もしくは一般商業地として商売繁盛につなげたいという想いで、橋下構想に乗っかって「あいりん総合センター」解体、一大商業センター建設(ハルカスの二匹目)を狙っている。

しかし、ことはそう簡単に進まないだろう。フェスティバルゲートで失敗した大阪市は膨大な投資をする余裕がないし、“怖い街”のイメージを解消することは、簡単なことではない。まず、「釜ヶ崎消滅」を試みた歴史を振り返ってみたい。釜ヶ崎を「安全な街、キレイな街」にしてはならない。

「あいりん総合センター」の解体・消滅狙う「西成特区構想」

過去3回、「釜ヶ崎消滅」は試みられた。第1回目は、明治時代中期、釜ヶ崎の前身、「長町ドヤ街」の再開発だ。大阪市内の木賃宿禁止令(大阪府令36号「宿屋取締規則」1898年)により、近辺のドヤはすぐに釜ヶ崎に移ったが、膨大な長屋スラムはなかなか撤去できなかった。結局、市が住友などの地主から土地を買い上げ、市営住宅を建てる形で最貧困層を釜ヶ崎に追い出し、ちょっとだけ上層移行してみただけだった。ヨセ屋は残ったし、バラック街は新今宮周辺にも広がった。

2回目は、1961年暴動後だ。第2次大戦の大阪空襲で、釜ヶ崎の大半は焼け出されたが、日本中から仕事を求めて人々が集まってきたため、あっというまにドヤ街は復活する。加えて50年代後半のエネルギー政策の転換で、大量の炭鉱労働者が首を切られ、仕事を求めて釜ヶ崎にやってきた。

彼らは労働活動の経験を積み、権利意識も高かった。高度成長期の中で、山谷で始まった「暴動」は、日雇い労働者の人間宣言として釜ヶ崎にも飛び火した。行政は釜ヶ崎をなくしたいと思ったが、かつてのような土地の買上げ=市営住宅化は見送られた。釜ヶ崎はスラム街から「日雇労働者の街」と変化していたので、分散化を図ったのだ。

まず港区に寮を建てて労働者を移動させたりしたが、失敗した。一方、ドヤ主たちは、大部屋から個室化の流れの中で、一人でも多くの労働者を収容するために、一つの階を二段に仕切って、上の部屋には廊下からハシゴで入る、カプセルホテルの原型ともなるドヤもどんどん作られた。

そして70年万博に向けて、全国から労働者が集められ、その宿泊地として釜ヶ崎のドヤがあてられたので、ドヤ街の個室化・高層化がいっそう進んだ。

90年になるとバブルが崩壊し、ドヤ代を払えない労働者は野宿化し、ドヤはがら空きになった。ドヤ主たちは大阪市に、「ドヤを借り上げて野宿者対策に使ってくれ」と要望するが、大阪市は拒否した。そこでドヤ主たちは、自ら公園に行き、野宿者を誘ってドヤに泊め、生活保護受給者にした。それを見て「貧困ビジネス」は各地に広がった。

そして今回が3回目の挑戦となる。橋下が市長になって打ち出したのが「西成特区構想」だが、今ひとつわかりにくい。子どもたちを釜ヶ崎から追い出したので、小学校の生徒が減少し、統合の案が出たのを利用して、「あいりん総合センターの解体・消滅」を狙っているのだろう。だが、フェスティバルゲートで失敗した大阪市は、膨大な投資をする余裕がない。そこでJR、南海の新今宮駅前なら、タワーマンション建設用地として売り出せる、と考えたのだろう。

これに商店主やドヤ主が乗っかった。今や釜ヶ崎住民の半数弱は、生活保護受給者になっている。彼らを西成区北西部に移して、萩之茶屋地区はタワーマンション街にしようとしている。

「釜ヶ崎は怖い」という差別意識を逆利用しよう

しかし、ことはそう簡単に進まない。暴対法で各地から締め出された暴力団が、釜ヶ崎のドヤを買い上げている。貧困ビジネス業者も新たなターゲットとして精神障がい者や引きこもりの若者に目をつけ、ドヤに住まわせて居宅保護をし始めている。山口組系企業舎弟のなかには、そのためにNPOを立ち上げたケースもある。認知症で暴力的な高齢者が施設から追い出され、その人たちの受け皿にもなっている。

いろんな街から追い出されたややこしい、おもしろい人が、釜ヶ崎にはいっぱいいる。だからトラブルも多い。小市民はすぐに逃げ出す。残るのは、逃げ出せない人と、そういう街を愛する私らのような人間だけだ。

私は「釜ヶ崎をアートの街」にすることに賛成だが、それは、決して観光化することではなく、世間に認められにくいユニークなアーティストが住み、創造できる場所として、上品にならず、下品なまま、他の街から排除された人を受け入れる街として続いていくことだ。

しかし、行政、資本の側としては観光一等地を捨てがたいだろうが、「怖い街」のイメージが解消できなければ、彼らも諦めるだろう。釜ヶ崎を「安全な街、キレイな街」にしてはならない。

しぶとく出店を出し続ける露天商たち、奇声をはり上げ、元気をふりまく障がい者、そして、ケータイを持てなくなった「派遣労働者」は、釜ヶ崎でなければ仕事にありつけない。実際、そんな若者が入ってきたので、あいりん職安の白手帳登録が増加に転じ、平均年齢もちょっとだけだが若がえった。東京オリンピックに向けて、職人の人出不足も深刻だ。

橋下市長は、最近「寄せ場機能は残す」と言い始めた。建設業界にとっても、「釜ヶ崎」は必要なのだ。貧困の小さな寄せ場がなくなって苦労しているのも、彼らなのだ。寄せ場は、労働者にとっても、情報交換の場であり、労働条件改善の拠点となる場である。

怖い街だけど必要な街、おもろい街としての釜ヶ崎≠ェ残り続けることは可能だ。そのためには、今の場所を離れてはあり得ない。排除に抗して、居続けるつもりだ。

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