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2014/10/23更新

名前のない生きづらさ

「女性である」ことを考える
「あるべき姿」からズレちゃった私とギブアップできない女性たち

野田 彩花

「あるべき姿との戦い」と、前回の結びに書いた。ひと月考えて、そんな格好良くて大層なことを私はしていないと気がついた。戦いの代わりに、ズレている話をしようと思う。

9歳で不登校になってから、私はずっとズレている。学校へ行くこと、働くこと、大人になること、女性であること…。

外れている、わけではないのがポイントだ。大勢の人がそうしているという意味での「あるべき姿」とか、社会をまわしていくための暗黙の「約束ごと」。そういうものから完全に距離を置いているわけでも、自由な場所にいるわけでもない。

ただ、どうしようもなくズレ続けているだけだ。同じズレている人でも、自覚的に、意識的に「ズラしている」人もいると思うし、個人的にはそっちのほうが格好良いと思うのだが、私の場合、どう考えても「ズレちゃった人」だ。

そんな私の数あるズレちゃったエピソードの中で、今回は、「女性であること」に的を絞ってみようと思う。

女性である、ということは、私をかたちづくる大きな要素のひとつである。そうでありながら、私は「女性として、女性について」語ることが苦手だ。苦手だということも含めて、今までずっと言葉にすることを避けてきた。

そもそも私は、自分が女性であるということを、いまだに上手く了解することができない。性同一性障害とか、トランスジェンダーだという意味とはまた違う位相において、だ。

自分が男性でないことは、性自認としてはっきりしている。ただ、「男性でないのなら、あなたは女性なんですね!」と聞かれると、「たぶんそう…なんだと思います」と、自信なく答えることしかできない。

そもそも、「私」という「中身」を収めるための「いれ物」として「身体」があり、その「身体」が、どうやら「女性」のかたちをしているらしい、というのが、私にとっていまのところ一番ピンとくる自身の身体や性に対する認識だ。

性別に対する認識がぼんやりしていることは、学校へ行っていなかったことと少し関係しているかもしれない。

小学校高学年になってから、時々登校していた学校で、驚いたことがある。クラスの男の子と女の子たちが、お互いのことを名前ではなく「男子」、「女子」と呼び合っていたのだ。「男子、掃除さぼらないでよ」、「女子はうるさいな」というふうに。個人の名前より先に、性別で一括りにしてしまうとは、素直にびっくりした。その感覚は、いまだにピンとこない。

「野田彩花」は「女性」である前に「人間」であって、「野田彩花」であることは、「女性」でありことよりも、ずっと優先されるべきことだ、と思っているからだ。

認識の問題から具体的なエピソードに話を移すと、まず、私は26年間の人生において、化粧をしたことは一度しかない。十代の後半、近所の「地域の美容師さん」という風情たっぷりのおばちゃんが、髪を切りに行ったついでに「あなたもそろそろ年頃だから」と、頼んでもいないのにさくっと化粧をはじめてしまったのだ。

ほんのりと化粧をした自分の顔を見て、「気持ち悪い」と強く思ったし、「これは私の顔ではない」と、嫌悪感がつのった。帰りの車のなかで、私は号泣した。「私」というキャンパスに、好き勝手に絵の具をまき散らされたような気分だった。

なにをいつ、どんなふうに描くのか、また描かないのかは、私が自分で決めるはずのことだった。それを他者に侵されたこと、断り切れず、結果として自分で自分を守ってやることができなかったことが、悔しくて仕方がなかった。

最初の出会いがそんなかたちだったことも関係して、以来私は化粧を受け入れることができずにいる。「すっぴんのままで外出なんて無理」という声はよく聞くが、私の場合は真逆だ。

これは、「大人の女性」とまなざされる立場としては、結構困ったことだ。たとえば冠婚葬祭などのあらたまった場で、女性が化粧をしないことは失礼だと見なされるらしい。祖父母ははやくに亡くなって、親族の結婚式には欠席を貫いているけれど、いつまでそれで持つことやら。具体的な困りごとである。

化粧をすることをひとつの通過儀礼、イニシエーションとしてとらえた場合に、象徴的なエピソードがもうひとつある。

20歳の成人式、私は振袖を着なかった。その日、私は上は黒のタートルネック、下はジーンズという格好で、華やかな振袖の群れに挑んでいったのだ。ジーンズは私にとっての武装であり、おそらく誰も気づかないであろうたった一人での抗議活動だった。

成人式は、「大人」になったことを皆で祝う「ハレの日」だ。

特に女性は、振袖を着ることで「大人の女性としてのハレ姿」を披露する意味合いが強い。

化粧をすること同様、振袖を着ることにも私は強い抵抗を覚えた。心を置き去りに、自分が大人の女性に「されてしまう」ことは、どうしても了解できなかったのだ。

そんな反発心を、若いというよりまだ幼い私は、ストレートにかたちにしてみせた。母からは、「わざわざそんな負け犬みたいな真似をしなくても」という言葉を頂戴したのを覚えている。

もう一度成人式の日に戻っても、やっぱり私は振袖に袖を通さないだろう。ジーンズを履くかどうかは、ちょっとわからないけれど。

「女性」としての枠組みから自由になれない私

こう書くと、まるで私は性別という枠から自由でいると思われるかもしれない。でも、それじゃあ「女性をやーめた!」と、やめられるものではないのだ。

枠組みから自由になって、「まったくご苦労なことね」と高い場所から見下ろすことはできないし、したくない。私だってズレてるだけで、ちゃんとしがらみの枠内にいる。

たとえば、男性の友人に会う時より、女性同士で集まる時のほうが服装に気合が入るし、かつての同級生と街中でバッタリ会って、彼女がきちんと流行に合わせたおしゃれをしていると、コンプレックスでその場から消えたくなる。「ゆるふわガール」は、見ていて疲れる。

外出する日は、必ず前日までに着ていく服を決めておく。当日適当に服を選ぶなんて気軽さは、夢のまた夢だ。私だって、縛られている。だがいま私が語ったことは、「女性の生きづらさ」としてはほんの上辺でしかない気がいつもしている。

生きづらさを言葉にしている私だが、「女性としての生きづらさを語ってください」と言われるたびに戸惑う。きちんと化粧をして、適度に流行を取り入れた格好で颯爽と街を歩いているように見える女性にこそ、その質問は向けられるべきだと思うからだ。誰の目にも女性としての「あるべき姿」にきちんと乗っかっているからこそ、降りたくても降りられない、ギブアップできないしんどさがそこにはあるのではないだろうか。

私のようなズレちゃった存在と、ギブアップできない彼女たちが、互いに優劣をつけることなく、一緒にそれぞれの生きづらさを語り合うことができたなら、その時初めて、「女性としての生きづらさを語る」という言葉が「私たち」の現実と噛み合い始めるのではないだろうか。

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