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2014/9/18更新

評価のまなざしA

母との長〜いバトル

野田 彩花

予告した内容からは少し外れるかもしれないが、私と母の葛藤を書こうと思う。

以前お話ししたとおり、私は子ども時代、業績評価のまなざしからは「アウトオブ眼中」な存在として、距離をとることを許されていた。今も、経済活動からは距離をおいているし、そのことで家族や友人から責められることは、ほとんどなかったように思う。

また、19歳の時にフリースクールを母体としたNPOとの出会いがあり、それまで抱いていた「学校へ行かず、働いてもいない自分は、まっとうではない」という思いを解きほぐし、自分の世界や無意識に内面化していた価値観を相対化する時間や知識を得ることができた。遅まきながら、私は自分が何を尊いと思い、何を大事にしたいと思っているのか、を知っていった。それは自分自身との出会いなおしであり、価値観を築きなおしていくことでもあった。

それでも、いや、だからこそ、私はいつもどこか苦しかった。自分の根本の部分が受け止められていない、と感じていた。9歳で不登校になってから、私の存在の受け止め手は常に母だった。学校へ行かなくなったことで、世界から見放された気持ちになっていた私は、母に認めてもらうこと、受け止めてもらうことによって、自分が「いらない存在」ではないことを確認してきた。

「学校へ行くことが当たり前」ではない価値観を持った人々や場との出会いは、本当の意味で自分の言葉が他者へと届いたと感じた瞬間であり、やっとみつけた「生きていていい」と感じる居場所だった。

けれども、そんな新しい価値観との出会いは、共に歩んできた母の持つ価値観とのズレをはっきり意識させることでもあった。つまり、親離れの時期が来ていたのだろう。

けれど、私はそう簡単に母の手を離すことができなかった。それまでの私にとって母の手は、命綱に等しかったのだ。それから本当の意味で私が母の手を離すまで、4年近くの時間が必要だった。

その4年間は、ふたりにとって戦争だった。今にして思えばずいぶん無茶な考えだが、私は自分が新しく築いた価値観の方へ、無理やり母をひっぱっていこうとしていたのだ。

母がいままで信じてきたものよりも、私が新しく見つけたものの方が正しく価値があるのだと、母に認めさせようと、躍起になっていた。ただ、当時の私は、「私のことを認めてほしい、受け止めてほしい。どうしてわかってくれないの」という思いでいっぱいだった。

無茶な考えだとか、躍起になっていたなんて、今だから言えるが、当時の私は必死だった。そして、母も必死だった。もう大人になった娘の都合に合わせて自分の価値観を変えろ、と迫られたのだから。

お互いにずいぶん傷つけあった。「あなたの言葉は人を追い詰める」「悪意を持って私に接しているでしょう」と言われたこと。それは痛みですらなく、頭が真っ白になり、胸に落ちる空白だった、「復讐してやりたい」と言ったこと。「生まれてきたくなかった」と、母にとって一番残酷な言葉を投げたこと。自分は感情のままに泣きわめくくせに、母が震えながら静かに泣いた時、罪悪感とともに、ずるい、と思ったこと。傷ついているのは私のほうなのに、なんであなたが泣くの、と糾弾したい気持ちになったこと。

私を受け止めてくれる存在がいないなら、あの場所は私にとって帰る場所じゃない─そんな思いに支配されて、家に帰る気になれず、ネットカフェで過ごした夜。どれだけ傷つけあっても、「ごめん」の一言も必要ないままに続いていく日常のなまぬるさに、「いっそ全部壊れてしまえ」と、願ったこと。そんな日々を何年も重ねて、私はようやく観念することができた。

変わりたいという意志のない人間を、たとえ親子であっても他者が変えることなどできない、ということ。弱さや不安も含めて、自分のことは自分で引き受けるしかない、ということ。ずっと抱きしめてくれる、丸ごと肯定してくれる存在がいてほしかったけれど、自分のことは、自分で抱きしめてやるしかない、ということ。どれもみんな、大切な気づきだった。

母との長いバトルを経て、私は結果として母を変えることはできなかった。当たり前だ。母自身が変わりたいとは望んでいなかったのだから。

ただ、私たちはお互いに了解した。私と母は別個の人間で、お互いに理解できない価値観を持っていること。わからない、ということをわかり合うことができたのだ。これはシンプルだけれど、大事なことだと思う。そうして私と母のバトルは、どちらも痛みを分け合い、合意の上の停戦ということで落ち着いた。

ずいぶん辛い日々だったけれど、私は決してひとりではなかったことを、ここに明記しておきたい。母とのバトルの日々にも、私には居場所という逃げ場があり、そこで激流のような感情を吐き出すことを許された。家に帰りたくないと泣きわめく私を、宥めるでもなく叱るでもなく、そばで見守ってくれる人たちがいた。母との激しい言い争いの夜、「また喧嘩しちゃった」とメールを送れば、それぞれの思いやりの示し方で、返事を返してくれる人たちが。

あまりにも母ばかりを求め、周りが全然見えていなかった私の周囲には、「なにやってんだか」と呆れながら、「大丈夫?」と心配しながら、「実は私も…」と同じ悩みを抱えながら、確かに私のことを見ていてくれる人たちのまなざしがあった。

そんな人たちがいてくれたからこそ、私は、「もう自分には、新しい世界と、そこで知り合った人たちがいる。母の手を離しても、私はいらない存在なんかじゃない」と言葉ではないところで実感することができたのだ、とそう思う。

そんな母との葛藤を超えて見えてきた、「あるべき姿」という世間からのまなざしとの戦いについては、また次回。

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