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2014/7/4更新

名前のない生きづらさ

私を評価するな

野田 彩花

劣等生と優等生を行き来する私

前回に続いて、記憶を学校へ通っていた頃へと巻き戻す(とは言え、私の「学校」の記憶は、小学3年生の秋までと、中学の1年間のみだ)。

学校へ通っていた頃感じていた苦しさ、その具体的なエピソードを語ることに、私は躊躇を覚える。それは私にとっての記憶でしかなく、得てして記憶とは個々の印象によってつくられていく、不確かなものに過ぎないからだ。

だから、いまから話すことが、私とその周囲の人たち全てにとっての真実などでは決してないことを、最初にお断りしておく。あくまでこれは、私だけの記憶であり、私だけの物語だ。

* * *

8歳か9歳になる頃には、私にとって学校生活は、緊張と恐怖の連続だった。

前回お話ししたとおり、私は身体や手先を動かす作業に関して、飲み込みが遅かった。図工や体育、理科の実験など、クラスの最後のひとりになるまで課題をクリアすることができないことも、めずらしくなかった。そんな時は、自分が「どうしようもなく劣った存在」に思えて、嫌で仕方なかった。もしクラスメイトや先生が、私のことを「だめな子、できない子」だと思ったら?─そう考えると、怖くてたまらなかった。

反対に、じっと座って教科書を読みながら、黒板に書かれた問題を解いていく、いわゆる座学の成績は、私は決して悪くなかった。むしろ、クラスで一人満点をとることも多い、優等生だった、と言えると思う。

けれど、そのことは当時の私にとって、《人間には得手も不得手もある》という、単純な図式では決してなかった。座学の成績がよかったことはむしろ、クラスメイトとの関係に微妙な緊張を生んだ。

ミスを恐れ隠そうとする私

小学2年の時の担任教師は、自分の助手として使えるような、クラスの手本となるような生徒を探すタイプで、私はそのお手本役に抜擢された。

他の学校の教師が授業の見学に来る「特別な」学級会が開かれることになった時、何人ものクラスメイトが手を挙げて司会に立候補したのに、教師は当たり前のように、私が司会進行を務めることを告げた。授業中、手を挙げてないのに、間違いのない答えを返すことを期待された。

そのように教師は私にやたらと目をかけ、ミスがあれば叱責した。気がつけば、そのクラスの「評価基準」に、私はなっていたのだと思う。

たとえば、国語や算数のテストで、私よりよい点数を取った男の子は、「野田さんに勝った!」と声に出して喜んでいた。私のテストの点数がふるわなかった時は、「そんなに悪い点、自分は取ったことないよ」と自慢げに告げる女の子がいた。

自分は、周りが思っているほど完璧な人間ではないことは、自分が一番よく知っていた。けれど、そのことに気づかれることが怖くて、その一年間、私はなるべくミス(と教師が定めたこと)を犯さないよう、緊張の糸をゆるめることなく、精神をはりつめて過ごした。

得手なことについては、私ひとりの手を離れ、過剰に期待され(その期待に応え続け)、不得手なことについては、厳しい叱責を受け、怯えから内心では欠陥としてどうしようもなく恥じ、隠そうと必死になる。

どちらも同じ、私を構成する要素のひとつに過ぎなかったのに。その1年で私がすり減らしてきた感情や精神のことを思うと、いまでも胸が痛む。

数字を「人格評価」へ変換する社会

数字の高低が人間の能力にあてはめられる時、そこには「高いほどよい」という価値観が生まれ、数字の高低は、そのまま能力の上下へと変換される。

やっかいなのは、個人の能力を測っていたはずの数字が、いつの間にか個人の人格や、人間としての価値そのものを表しているのだという錯覚や混同が、学校を含め、いまの社会に広く流布してしまっている点だと思う。そのような混同がなされた時、そしてそれが混同であると意識されない時、数字はただの数字ではなくなってしまう。

数字が、本来測りきれぬものを多様に含んだ人間を飲み込んでいくのだ。たまたま数字で測られる対象と肌が合わずに、低い評価を受け続け、自信を失っていった人や(実際私もそのことに怯えてはいた)、不当な差別を受け、正当な評価を受けられずに苦しんだ人も、もちろんいるだろう。

しかし、前者の「自分にだって、できることはある。そこをちゃんと評価しろ」という声や、後者の「差別をするな。正当に評価しろ」といった声は(当時者の苦悩はもちろんあるだろうが)、そうではない第三者にも比較的受け入れられやすいものだと思う。

なぜならば、それらの主張は「数字にもとづく評価の幅を広げろ」という一面を持ち、第三者にとって、自分たちが当たり前の基盤としてきた価値が揺らぐことではない。いわば、「こちら側」に他者を招き入れることにすぎないのだ。

もちろん、例に挙げた状況にある人々が、みな一様に「数字にもとづく評価」に賛同し、その仲間に入れろと主張してきた、というつもりはまったくない。

ただ、声を上げる少数者に対して、多数派である人々が、自分たちの「当たり前」や「常識」を疑うことなく、少数者を飲み込む形で問題を解決したかのように見せかけてきた側面があるのではないか。

そういった背景や力学も含めて、私は数字にもとづく評価に対して、どうしようもない違和感や拒否感をもち続けている。子どもの頃の経験を経て、大人になったいまでも、数字や評価のまなざしのことを思うと、恐怖や苦しみを覚える。

「正当に評価しろ」という声が歴史的に、そしていまも上げられているという事実を認めた上で、私はあえてこう言いたい。「そもそも、いまの評価のあり方はおかしい。そのようなまなざしで、私を評価するな」と。

何をどのように「おかしい」と感じているのか。次回、もう少していねいに、そのことをお話できたらと思う。

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