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2014/4/23更新

国家が対立しても民衆は連帯する

草の根民間交流=日本語コーナー創設者・博堅さん

八一公園には「日語角」(日本語コーナー・民間の青空教室)がある。日本語を学ぶ学生、日本人教師、日本人留学生や日系企業で働く中国人など多彩な人が集まり、日本語による交流・情報交換を行っている。創設者・博堅さんにインタビューした。

父親は福島大学で20年間教鞭を執ったが、日中戦争の勃発で中国に帰国。天津では学長を務めていた華北交通大学の教室や宿舎を開放し、内蒙古から日本へ帰国する日本人が帰国する船を待つ間の食事と宿舎を提供したという。まさに日中文化交流の先駆であり、開拓者である。

日語角は1985年、博堅さんが呼びかけ、江西省・南昌市政府に正式に認めさせた、中国で初めての日本語コーナーだそうだ。来年で30周年となる。中央政府の日本語通訳者も、この八一公園日本語コーナーから育ったという。(インタビュー・山田)

※ ※ ※

福島大学で20年間教鞭とった父/日中文化交流の先駆者

編…日本語コーナー設立の経緯をお聞かせください。

博堅…1985年当時、南昌に日本人は一人もいませんでした。「日語角」参加者は南昌大学で日本語を学ぶ学生くらいで、少人数の青空教室として出発しました。青空教室としたのは、貧しくて大学に入れない中国人が日本語を学ぶ場としたかったからです。

その後日本への留学生や出稼ぎ者が増えていき、大学でも日本語学科が新設され、参加者も増えましたので、江西省と南昌市に公認許可を求めました。江西省通訳翻訳者工作協会や南昌市外国語協会が、「国際友好にとって良いことだ」として後押ししてくれました。

日本語コーナーは、日本人も中国人も参加して、お互いに学び合う場として発展しました。看護師として働いていた2人の日本人女性が私たちの先生となり、90年代になると、毎週30人以上も集まるようになりました。

編…博さんは、福島生まれだそうですが…。

博…私の父は、福島高商(現福島大学)で20年間、中国文学教授を勤めました。大学キャンパスにある戦没同窓記念碑名簿の筆頭に父=博棣華の名が刻まれています。福島は、私が生まれ育った土地でもあります。2009年、日中友好協会会長の長尾光之氏のお招きで再び福島の土を踏むこととなりましたが、阿武隈川の清流を見て、私の心は激しく動き、涙が滂沱として流れてやみませんでした。

1933年、福島で生まれた私は、福島第4小学校に通い、幸せな日々を送っていました。ところが日中戦争の黒雲が世間を覆い尽くし、侵略者の魔手が伸びてきました。1943年、警戒警報のサイレンが連日鳴り渡るある日、ガキ大将に率いられた同級生が自転車の歯車を手に「シナ人、チャンコロ」とはやしながら私に襲いかかりました。こめかみが割れて血が吹き出しましたが、反撃は叶わず、涙が止まりませんでした。

家に帰ると、いつも特高が家に来ていました。「日満一体、共栄共存」を説教し、父の両腕をとって諸手を挙げさせて「万歳」を強いるのです。父にとっても忍従の日々だったと思います。配給制度の中、お米もなく、食べるものもなくなりましたが、近くの村に住む農民が魚や野菜を分けてくれたことを覚えています。尊い友情の証でした。

父は1924年から福島商高(現福島大経済学部)の教師に就き、東北帝大の講師も務めました。彼は、中国文学を講じるのみでなく、演劇にも意を注ぎ、学生を指導。後に「勲四等瑞宝章」を得ました。亡父はまさに日中文化交流の先駆であり開拓者でした。

激動の人生と日中交流

1944年末、戦争は烈しさを加え、日常生活は苦しく、父への特務憲兵の監視も厳しくなりました。同僚である浜島教授からの説得もあり、北京への帰途につきました。父は、北京で鉄道管理局保線区参事に任ぜられ、併せて天津にある華北交通大学学長も務めています。

1945年、日本軍は投降。大混乱の中で国共合作が成立し、我々はひと安心しました。この時父は、華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、内蒙古から日本へ引き揚げる日本人が、帰国する船を待つ間の食事と宿舎を提供しました。人道主義の精神と日本の庶民から受けた友好的な行為に応えるための行動でした。日本人引き揚げ者たちは帰国に際し、父の手を握り、涙を浮かべて別れを告げていました。

しかし、この行為は国民党軍の軍規に違反する行為で、父は逮捕されました。後に無罪となり釈放されましたが、獄中生活の過重な苦労で出獄後時を経ずして病に伏し、精神的にも打撃を受けて、病者となりました。

1948年、両親と姉と私の4人は、上海に移りました。次姉の夫=朱紹文は復旦大学聖約翰大学教授で、東南日報編集長も務める人で、彼の家に落ち着きました。

1949年6月、16才の私は、革命に参加。蘇州華東軍政大学に配属され、後には宣伝幹事、文化工作団員を歴任しました。51年以後も国務院建設工作部の文化工作団、海軍政治部文化工作団に配属され、俳優・脚本・原作執筆などの活動に従事しました。

総じて私は幸運児でしたが、「改革開放」の機運は、私の晩年に平凡ではあるが、満足いく幸福をもたらしました。なかでも最もうれしく、また感動を与えてくれたのが、「南昌日本語コーナー」でした。中日友好の窓口を開き、両国の架け橋となれば、との思いで始めた民間青空教室です。

一衣帯水の日本からもたらされた幸福と友情の場でもあり、多くの日本の友好的な人たちから支持と賞賛を得ています。

平和のための草の根交流

編…安倍政権については?

博…日本の庶民は勤勉・誠実で、中日の民衆は各地で隣人として生活し、友好関係を築いてきました。にもかかわらず、軍国主義者たちが領土問題をことさら煽りたて、対立を生み出しています。安倍首相は、南京大虐殺を否定し、靖国を参拝して侵略の歴史を否定しようとしています。こうした政治的動きに対し中日人民は協同して、反対しなければなりません。

これまで中国と日本は、草の根の交流を拡大して、信頼関係を築いてきました。江西省は岡山県と友好省県協定を結び、南昌市と高松市は姉妹都市となっています。毎年両国人民が互いの国を訪問して民間交流を続けています。

「日語角」は、民間交流の大きな拠点の一つです。現在は毎週50名以上が集まり、江西農大南昌商学院・江西師範大・江西科技師範大・江西財経大・南昌大などの学生や、日本人の先生たち、会社員や主婦も参加しています。国と国の関係はぎくしゃくしていますが、私たちは、しっかりとした友好関係を築いていきます。

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