人民新聞オンライン

タイトル 人民新聞ロゴ 最新版 1部150円 購読料半年間3,000円 郵便振替口座 00950-4-88555┃購読申込・問合せはこちらまで┃人民新聞社┃TEL (06) 6572-9440 FAX (06) 6572-9441┃Mailto:people★jimmin.com (★をアットマークに)
HOME社会原発問題反貧困編集一言政治海外情報投書コラムサイトについてリンク過去記事

2012/5/23更新

瓦礫論

ガレキ処理問題から脱原発運動を考える  

小倉利丸さんの「ガレキ論」を紹介する。小倉さんは、「利益だけ取り、リスクを取らない態度は許されない」とした上で、広域処理反対運動への危惧を表明する。それは、「広域処理反対」の主張は、結果として被災地にがれき処理を押しつけることになる。原発による電気の受益者である都市部が、リスクとしての放射能がれき受け入れを拒否できるのか? との問いかけだ。被災地と非被災地の運動相互のコミュニケーションの必要性を強調する。(文責・編集部)

「拡散するな」から 「被曝させるな」へ

小倉  利丸

政府の瓦礫拡散政策が進んでいる。この拡散に対して、瓦礫受け入れを表明した自治体では、住民たちによる受け入れ反対の運動も拡がりをみせている。

政府の広域処理は、説得力に乏しいうえに、「被災地の復興を支援するというのであれば、瓦礫を受け入れるべきである」という、ある種の脅しである。瓦礫受け入れの是非を、「被災地を見捨てるのかどうか」という踏絵にしようという意図を感じる。

問われる「抵抗の思想」

しかし、瓦礫受け入れの是非をめぐっては、運動の内部で意見の収束をみているとは思えない。というのも、瓦礫を被災地から外に出すべきではないという「拡散」反対の主張は、瓦礫を被災地で処分することを意味することになるからだ。

放射性物質で汚染された瓦礫の受け入れに反対する場合、その結論を導く論理、とりわけ被災地の被曝という問題を織り込んだうえでの反対の論理はいかにして可能か、という難問を避けることができないだろう。ややおおげさに言えば、抵抗の思想が問われる問題なのである。

非被災地の運動が瓦礫の拡散反対=汚染瓦礫の福島原発近隣地域での処分を要求をする場合、私は二つの重要な前提条件が必要だと考えている。

第1に、このような要求が、避難を余儀なくされている福島原発近隣住民の合意なしに主張されるべきではない、ということである。

第2に、原発近隣住民は、汚染瓦礫を受け入れなければならないような責任を本来的に負うものではない、ということもまた明確にすべきである。

この意味で、責任を負うべきではない人々に犠牲を強いる主張は、当時者との間の討議なしでの一方的な主張であるなら、それは運動の民主主義に反する。

「瓦礫引受けを拒否するのであれば、誰に引受ける責任があるのか? 」という問いと、責任のある者に責任をとらせる運動を視野に入れない限り、「受け入れ反対は被災地への押しつけ」という間違ったメッセージを発信してしまう。

@政府の瓦礫広域処理の踏絵を拒否すること、しかし、A放射性瓦礫を被災地に押しつけるべきでもないこと、B責任のある者に責任をとらせること、この3つの条件を満すスタンスはありうるのだろうか。これが、瓦礫について、この間私が考えてきたことである。

汚染ガレキは東電管内で処理せよ

私は、利益だけ取り、リスクを取らないという態度は許されない、と原発の事故以降繰り返し主張してきた。このため私の立場は、「汚染された瓦礫は東電管内で処理せよ」というもので、汚染瓦礫は、福島第一原発の電力供給の受益者(消費者、とりわけ大量のエネルギーを消費する経済界)が、そのリスクを負うべきだと思う。

電力消費の大きさに応じて、リスクも負ってもらうしかなく、そうとすれば、最大の瓦礫の引き受け手は東京や首都圏以外にありえない。石原都知事や関東地方の首長たちがガレキ受け入れを表明したが、着地点はまったく違う。私は、福島原発の最もリスクの大きい汚染されたガレキをも引き受けるべきだ、と言っているのだ。

このことは、首都圏全体を人の住むことのできない場所にする可能性のある主張でもある。メガシティ東京の「豊かさ」が誰の犠牲によって享受しえてきたのか、その犠牲の大きさに愕然とすべきなのだ。

支配的な消費文化の底流にある安全の文化は、他者の不安全という犠牲の上に成りたつ。脱/反原発運動は、こうした安全の文化そのものを覆えさなければならない。

利益だけを取り、リスクを取らない、そのような特権的な構造がこの国の地理的な空間には存在している。都市と地方、メガシティと農村、近代資本主義が生み出した空間の差別と搾取の構造は、変わりなく存在しているということである。

東京に原発を! というスローガンがあるように、東京をゴミ捨て場に! というスローガンもまた叫ばなければならない(東京は大阪と読み替えてもいいし、僕が住む富山もまた、北陸電力の本社が立地する場所として、志賀原発のゴミについては免罪されえない場所である)。

運動相互のコミュニケーションを

瓦礫受け入れ反対運動に対して抱く一つの危惧は、運動のなかでの合意形成に関わる事柄である。瓦礫受け入れ反対と瓦礫搬出反対が共鳴しあう関係のなかで運動が成り立っているとはいえず、被災地の運動と非被災地の運動の相互のコミュニケーションが見えない。言い換えれば、運動の民主主義が成り立っていないのではないかと思うのだ。

誰もが納得できるように解決する道筋をつけることが困難な問題であればあるほど、当時者相互の議論は欠かせない。

鎌田慧は、六ヶ所村に放射性廃棄物の処理を押し付けようとする政府、電力資本、財界の思惑に対して、「『NO』の声を、六ヶ所村だけにあげさせるのではなく、地域に原発を受け入れた人々が、あたかもツケを他人に押しつけるように、廃棄物を六ヶ所村にはこぶ政策を拒否できるかどうか。それが原発の増殖を断つ、もっとも明快な態度の表明である」と述べている。

運動は「ツケを他人に押しつける」ようであってはならない。志賀原発反対運動は、「核のゴミ、作るな、運ぶな、押し付けるな」をスローガンに掲げた。運動は、核のゴミを生み出している現地でもゴミの受け入れを押しつけられる側でも、連動して展開された。運動は明らかに、ゴミを送る側でも受ける側でも問題意識の共有があったのだ。

瓦礫拡散反対運動が瓦礫のリスクを被災地に押しつける結果にならないためには、脱/反原発運動が、被災地とそれ以外の場所の双方で、お互いの信頼関係やコミュニケーションを構築する以外にないだろう。

他者の安全を犠牲にして自己の安全を確保する運動は、かならず「他者」とされた人々との間に深刻な摩擦や確執をもたらすだけでなく、運動の分断をもたらす。

運動の民主主義が向うべき方向は、これとは真逆であるはずだ。

10万年を見すえた運動の民主主義

自分の安全だけしか視野に入らない「安全の文化」は、自分の安全のために他者を犠牲にしても、そのことに気づかないか、無視してもよいと感じる感性を生みだしてきた。

このようにして作られてきた「安全の文化」は、生産から消費に至る過程全体を覆うリスクの構造を問うことがなく、農民の権利にも、被災地で暮す人々の安全に居住する権利への関心も、萎えさせて

しまう。脱/反原発運動は、こうした安全の文化そのものを覆えされなければならない。

このようにみてみると、汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思える。

農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか? そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味を、わたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならない。想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない(世代を越えた)他者への想像力の問題である。

福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを、私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に安全な土地への帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。

運動は、「拡散をしないなら、被災地が引き受けるのも仕方がない」ということを拡散反対運動の理由にしてはならない。「仕方がない」を運動の支えにしてはならないのだ。何よりもはっきりさせるべきは、筋を通して考えるとすれば、どのように考えなければならないのか、である。

破壊された原発内部とその周辺に飛散したプルトニウムのように、半減期二万四〇〇〇年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれは、私たちの問題解決の射程がこの半減期に及ばないような想像力しかもてないということそれ自体を反省すべきなのだ。

核の最終処分まで視野に入れて、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。

10万年もの間安全に保管しなければならないような放射性廃棄物を生みだし続ける原発が現実に存在することを非現実的とは言わないとすれば、つまり、10万年という物差しの現実性を前提すれば、福島が汚染された瓦礫から解放される可能性もまた十分にあると思う。地震学者たちは数百年を単位に原発の危険性を論じているように、脱/反原発運動の側も、その時間と空間の尺度を大きく変えなければならない。

運動の民主主義は10万年の民主主義を内包しなければならないし、国家も民族もありえないであろうような未来に負債を負っていることを自覚すべき問題なのではないだろうか。

HOME社会原発問題反貧困編集一言政治海外情報投書コラムサイトについてリンク過去記事

人民新聞社 本社 〒552-0023 大阪市港区港晴3-3-18 2F
TEL (06) 6572-9440 FAX (06) 6572-9441 Mailto:people★jimmin.com (★をアットマークに)
Copyright Jimmin Shimbun. All Rights Reserved.