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2012/4/7更新札幌・泊原発

【特集】3.11一周年・全国各地「脱原発」の声

(以下一部全文と写真説明は1442号を入手ください。購読申込・問合せはこちらまで。)

札幌・泊原発  泊3号機止めて「全原発ゼロ大行進」を

北電包囲人間の鎖(札幌)と「百姓一揆宣言」(小樽)

Shut泊 泉 かおり 

3月11日、午前中は、札幌の「なくそう原発!許すな再稼働!」集会デモ、午後は、小樽の「なくそう原発!3・11小樽集会」に参加した。まだまだ冷たい風が頬を打つ中で、札幌は2500人、小樽では400人が参加した。

今回のデモは、大通公園2丁目で流れ解散、そこから、誰ともなく口コミで「北電囲い込み、北電囲い込み…」と噂が流れ、北電がぐるりと包囲できるだけの人数が集まるまで、20〜30分ほど北電のまわりをグルグルと歩き続け、集まったところで手をつなぎ、人間の鎖ができた。

警官たちが血相を変え、何台ものカメラで、デモ隊をビデオに撮り始めた。警官たちが、私のところに駆け寄り、「この主催者は誰ですか!? 申請は出したんですか?違法です!」と詰め寄ってきた。「私は主催者ではありません、誰が主催者か知りません」と答えても食い下がる。白い松葉杖の年配の男性が、「みんな!並んでください!」とかけ声をかけ、警官隊がドドドっとそちらに駆け寄った。これは、私への救助対策だったという。

フランスでは、6万人が、リヨンからアビニョンまでの230qを、人間の鎖で繋いだというのに、たかが20bの距離を、200人程が手をつないで囲んだくらいで「切れて」しまった北海道の警察の皆さんに、「お疲れさま」といいたい。

 国会議員直談判でなぐりこみ

そして、小樽集会で講演・アピールをすることになっていた私と安斎由希子さんは、中山淳さんと3人で、小樽へ車を飛ばした。

400人収容のマリーンホール小樽は、満杯。ライトが消され、暗闇の中、スポットライトに中学生くらいの男の子がひとり浮かび上がり、詩の朗読が始まった。「子どもにも原発はいらない」。福島の女性の、日常と迷いを語る詩の朗読が、それに続いた。聴衆は、しんとして耳を傾ける。

私は、「再稼働を止めるために、今わたしたちができること」というテーマで、お話をさせていただいた。原発から30q圏内で有機農業を営む安斎さんは、「原発を止めてほしい」と町にいうと、「道に聞いてくれ」、道にいうと、「国に聞いてくれ」という。地元出身の議員に直接話しに行こうと、何度連絡しても、会ってもらうこともできない。だから、私は3月21日に、「地元出身の国会議員に直接会いに東京に行きます!」と語り、大きな拍手がわいた。

私たちは、これを「北海道の百姓一揆、国会議員直談判(なぐりこみ)!」と名付けた。東京行き支援カンパには、札束が飛び交い、あっという間にカンパ箱は満杯に。小林多喜二の小樽の熱さを感じ、「多喜二が今生きていたら、一緒にデモをやれるのに!と思いつつ、小樽の町のアーケードを、400人の小樽の人々と歩いた。

次回は、泊3号機が止まり、日本が原発ゼロとなる頃に、「原発ゼロ大行進」をやろうと、今、若手が中心になって着々と計画が煉られている。3・11は、まだまだ続く。

九州・玄海原発  あれから1年私たちは福島を忘れない。行動を起こすのは今

福島の犠牲を「新しい道を開くチャンス」に

プルサーマルに反対する会 永野浩二 

私たちは、玄海原発プルサーマルに反対して声をあげ、2010年8月、MOX燃料使用中止を求めて提訴しました。2回目の公判を迎えた昨年3月11日、まさにその時、あの大地震と大津波。そして、福島第1原発の爆発…。私たちは、《原発そのものを止める》ということを前面に出して、闘っていくことを決意しました。

7月、玄海原発再稼働をめぐり、古川康・佐賀県知事が関与した「九州電力やらせメール」事件が発覚。玄海の再稼働は先送りされ、昨年12月からは、九州すべての原発が停止しています。そうした中で迎えたこの日、「忘れないで3・11〜脱原発佐賀行動」を、実行委員会の仲間と共に取り組みました。

この日はまず、昨年6月に福島市から佐賀県鳥栖市に避難された木村雄一さんのお話に、じっくり耳を傾けました。木村さんは、自身で撮られた画像・映像を紹介しながら、津波で行方不明となったご両親のいた宮城県石巻市の様子、放射能からの避難を決断した経緯などの、辛い話を話していただきました。

 目に見えないものを失った

「60`離れている原発には、当初無頓着でしたが、福島市で毎時20数μSVと、初めて聞いた時はピンときませんでした。何が本当に危険なのか。ネットで検索すると、毎時0・6μSVを超える場所は、原発施設などと同様の放射線管理区域となり、規制されていることを知って、びっくりしました。

私たち夫婦は、人生の決断を強いられました。悩みに悩んで、『これからの人生を家族と生後5カ月の娘のために生きなくてはいけない』と決断しました。経営していたライブハウスをやめて、1500`の道のりを1晩かけて佐賀までやってきました。途中に立ち寄ったパーキングエリアで、初めて外の空気を思い切り吸う娘を見て、間違っていないと思いました。

佐賀に来た直後に、古川・佐賀県知事の「やらせ」の舞台となった、再稼働説明番組がありました。その抗議集会に、初めて駆けつけました。福島事故が起こる前から、闘っている方々がいました。本当に、親身になって考えてくれていました。

目に見えるものより、目に見えない多くのものを失ったということを、この1年で感じています。友達や仲間との、趣味の話や仕事の悩みの話だとか、そういうたわいもない時間が、最も大事だったと感じています。

失われた多くの命、破壊された家々。先行きの見えない不安を、心の中で整理しようと必死に模索した1年でした。1日も早く、原発を完全停止、撤廃することを望みます。福島の犠牲を、未来の世代への新しい道を切りひらくチャンスとしましょう」。

「九州の鬼」となって

避難してきた高校生のメッセージや、悲しみと怒りをこめた短歌、連帯メッセージなども紹介された後、「3・11脱原発佐賀アピール」を採択。14時46分にあわせて、参加者一同で黙祷し、祈りと誓いをささげました。

そして、デモ出発。木村さんのお話をかみしめながら、途中の九州電力、知事公舎、佐賀県庁の前では、「九州の鬼」となって怒りをぶつけながら、犠牲者への祈りと、脱原発の誓いをこめて歩いてきました。

私たちは福島を忘れない。行動を起こすのは今。みんなの力で原発を止めよう。(「3・11脱原発佐賀アピール」より)

福岡 野外ライブとスプレーアートで脱原発を表現

3.11〜 未来につぶやかれるように

いのうえ しんぢ 

ラップメッセージに涙する人

3月11日以降に、一体どう活動していたのか。あなたの軌跡は、後世に伝えられるような、例えば未来のこどもたちに読みつがれる教科書に残されるようになるかもしれません。

福岡市中央区にある須崎公園に集まって行われた、「さよなら原発3・11福岡集会」は、5000人近くの人たちが集まり、定刻の時間になると、アジア最大の野外音楽祭「フジロック・フェスティバル」でもMCを務める、スマイリー原島さんの司会で始まりました。

福岡パンク界の兄貴分的存在である、1Z3(イズミ)氏によるベース弾き語りは、原始的な響きを感じさせるベースギターと共に、歌を届けてくれました。沖縄から参加してくれたカクマクシャカのライブは、人間に本来ある力強い生命力と、逆に自分自身たちが生み出した愚かさを憂うというメッセージをラップで伝え、客席には、彼の言葉に涙される人も。そんなステージの間に、堀川泰樹氏のスプレーアートでは、脱原発を宇宙的視点からとらえた作品ができあがりました。

スピーチでは、被災者が中心となって作られたグループ「ママは原発いりません!」が、原発事故後、様々な理由で家族が引き裂かれてしまっている現実などを訴えられ、原発労災裁判原告の梅田隆亮さんは、原発労働の後遺症に苦しむ報告を、長崎の原爆被害者の西山進さんは、原爆投下後の惨状を思い出されながら、「もう二度と日本で放射能の事故を起こしてはいけない」と伝えられました。

ジャンベ・グループと 仮装チームに街角から声援

盛りだくさんのステージが終わると、須崎公園から九州電力本店までの、デモ行進です。鳴り物が多く奏でられ、ジャンベ・グループ「フォリカン」が太鼓で盛り上げ、ブブゼラ、(博多っ子なら御存知の)「博多ぶらぶら」のテーマをBGMに、コールで仮装チームが盛り上げました。沿道から手を振ってくれる人、うどん屋さんの店員さんたちが、店先に並んで声援を送ってくれるなど、日曜の天神の昼下がりで、見物人も多かったように感じました。

繁華街の天神を通り、九州電力本店前をぐるりと囲み、社前でもアピールしました。「社員も出勤してない日曜日なのに、九電前のアピールは意味がない」という声も、あるのかもしれません。でも、それは百も二百も承知のこと。九電社員に直接リアルタイムで届かなくても、それでも抑えきれない気持ちがあるからです。このやるせない気持ちを、マスコミを通して、そして沿道の人たちの視界を通じて、届けたかったからです。

他の星まで飛べるロケットや、地球の裏側までも文字や映像を使って交信だってできる…そんな技術があるのに、「核爆弾のでき損ない」の危険な発電所が、今も残され、海外に輸出までされてしまう国…それが今の日本です。

 僕ら自身の問題/本気で取り組もう

原発がないと誰かが仕事を失うとか、経済がまわっていかないとか、火力発電の燃料じゃ、電気料金が高くなっちゃうとか、自然エネルギーは現実的なのか、とか…そんな問題をどうしていくのか。それは、僕ら次第です。どれだけ本気で取り組んでいけるのか。全部、僕ら自身の問題なのです。

きっと「こうした方が良いのでは?」と、やり方を変えることができます。それが「正しい」か「間違い」かは、すぐにはわかりません。後の時代で判断されることかもしれません。その時に、未来の人たちは、きっと顔を見合わせて、こうつぶやくのではないでしょうか。

「不思議だなぁ。どうして、あんなバカバカしい時代があったのだろう」って。

東京  ひきこもりの友達が雨を見て「ああ、セシウムがセシウムが…」

人間の鎖で国会を包囲

編集者 伊藤書佳  

3月11日、東日本大震災から1年が経ったこの日、私は、国会を囲む人間の鎖のひとつになってきました。数日前までは、この日は震災の被害にあった人たちを思い、亡くなった方を悼む日に留めようと考えていたのですが、あの震災の日に「原子力発電所が起こした事故の問題を追及し続ける人がいる」と、政府に目に見えるかたちで示す直接行動が必要だと思い、参加することにしました。

「追悼と脱原発の誓いを新たに3・11東京大行進」のデモに参加したあと、日比谷公園から国会議事堂へと向かいました。外務省を過ぎて国会に近づくと、議事堂を囲む歩道は、警察に封鎖されていて、立ち入れない状態。車道を挟んだ反対側の歩道は、三角コーンとバーで仕切られていて、鎖になる人たちは、バーの内側に押し込められていました。私もその中に加わり、様子をうかがっているうちに、鎖になる時間の17時が過ぎていました。

集まってくる人で国会の真正面がごった返す一方、「鎖のつながっていない場所もあるので、移動して下さい」と主催者のアナウンスが伝わってきました。同行したひきこもりの友だち2人から、「私たちは脇役じゃないですか。こんなスポットライトの当たる正面にいる必要もないでしょう。人の少ないところへ動きましょう」と促され、憲政記念館を越え、国会図書館の前のゆるやかな坂をのぼって行き、人の途切れた場所を探して歩きました。隙間のあるところを見つけ、列の中へ入ろうとキョロキョロしているうちに、仲間のひきこもりママンズ(ひきこもりの子を持つ母親)を発見! 隣にならびました。

 きれいなキャンドルの灯り

いつの間にか日は暮れて、主催者が用意してくれた、紙コップの底に仏壇用のろうそくを差したキャンドルライトに火を灯し、鎖がつながるときを待っていると、雨が降ってきました。がっくりしながら立っていると、隣にいたひきこもり友だちが「ああ、セシウムがセシウムが」と騒ぎだしたので、いちばん近い地下鉄の入り口まで走って雨宿り。雨があがるとまた鎖に戻る、ということを2度繰り返しました。

鎖の完成を待って、みんなが手をつなぎ始めました。隣を見ると、カップルが持参の青色のキャンドルを2人で持ちながら寄り添っています。「いろんな人が来ているんだなあ」と思いながら、手をつないだところに「みなさんお疲れさまでした。このあと、首相官邸前に移動します」という声が聞こえました。人間の鎖は、もうすでにつながっていたのです。

「ふう」と深呼吸して顔をあげると、反対側の歩道にいる人たちの掲げるたくさんのキャンドルの灯りが、静かに揺れていました。

若狭・敦賀  「脱原発プログラム」策定を急げ

サヨナラ原発福井ネットワーク・越前市議 山崎隆敏

私たちはフクシマ以前から、「日本でもチェルノブイリのような過酷事故が起きる」と警鐘を鳴らしてきました。しかし、国も電力会社も県も「日本では絶対に起こりえない」と豪語し続け、ついにフクシマの悲劇を招きました。福島原発事故では、放射能の70%が太平洋側の海域に流れましたが、敦賀・若狭で過酷事故が起きれば、放射能の大部分が、陸域に向かう可能性が高いのです。

ところで、老朽原発だけを廃止すればよいかのような議論がありますが、チェルノブイリもスリーマイル島原発も、当時は新鋭の原発でした。これらの事故は、最初はささいなトラブルから大事故に進展したのです。

また、新しい原発であっても、直下地震に耐えられる保証はありません。日本列島には、地表に見える活断層の10倍の数の伏在断層が隠れており、国の中央防災会議も「M7・2級の地震はどこでも発生しうる」と警告しています。M7を超える直下地震に襲われれば、短周期の地震動に共振しやすい、原発の重要機器や配管は耐えられません。そうなれば、フクシマ以上の破局的大惨事となります。

敦賀・若狭地方は、1970年代に地震予知連が指定した「特定観測地域」の範囲内にあり、大地震の起こる可能性が高いことは、地震学界の常識です。世界に例を見ない原発集中地域である福井県は、全国に先駆けて「脱原発」を選択すべきです。

私たちは昨年7月、原発廃絶を願う無党派の市民団体「サヨナラ原発福井ネットワーク」を、新たに結成しました。主婦、農業、自営業、会社員、公務員、宗教家、医師、弁護士、大学教員など、年齢も職業もさまざまな県民が集っています。

脱原発意見書を県議会が否決

今年の3月県議会には、次のような「脱原発プログラム」を、早急に策定するよう国に求める意見書の採択を陳情しました。しかし、常任委員会(自民・民主)で否決されました。福井の政治が変わるまでには、まだ時間がかかりそうです。

(1)国の事故調査委員会の第4回報告書(2月15日)では「(原子力発電所を)建てられない日本に、建てられるように基準を作っており、全面的にその改定が必要であるとの認識も示された」と報告されている。これは、基準そのものがデタラメという指摘であり、安全基準の全面的改定なしに、停止中原発の運転再開など、してはならないということである。

(2)立地自治体に激しい痛みを伴うことのない「脱原発プログラム」を早急に策定することを求める。@電源三法を廃止し、原発や核施設の立地自治体が、脱原発社会への転換を目指すことを容易にする財政的支援策を、国が講ずること。A9電力が独占している発送電を分離し、電力の完全自由化を促進するための法改正をおこなう。B原発の建設を促しやすい現行の電気事業法の「総括原価方式」を廃止すること。C8月に成立した再生可能エネルギー促進法のもとで、太陽光・風力をはじめとする再生可能エネルギーで発電した電気の、固定価格での全量買い取りを電力会社に義務付けること。

(3)ウェスティングハウス社(関電の加圧水型軽水炉)は当初、原発の寿命を30年として設計している。脱原発依存の最初のステップとして、30年を超えた原発の廃炉を求める。

兵庫・尼崎  3・11 1周年さいなら原発尼崎アクション

巨大反原発看板と 駅前ライブ

編集部 山田洋一  

兵庫県尼崎市で2日間にわたる反原発イベントが行われ、スタッフとして参加した。3月10日は、3・6b×5・4bのメッシュシートに防護服・ガスマスク姿で反原発巨大看板をペインティングするというパフォーマンス。テントが3張設置され、「さいなら原発尼崎住民の会」会員交流の場としての「反原発カフェ」では、翌11日のデモに向けたポスターづくりも行われた。

3月11日は、大阪1万人デモに参加したメンバーが合流し、午後6時から反原発ライブ。バックの巨大看板のスクリーンには、反原発看板のスライドショーも映し出された。夕暮れて冷え込んだが、たっぷり3時間ライブを楽しみ、反原発・再稼働阻止を訴えた。

尼崎では、昨年9月「さいなら原発尼崎住民の会」が結成され、脱原発1000万人署名活動を軸に、各種講演会、保育所で幼少の子どもを持つ保護者を対象とした座談会など、多様な活動を行ってきた。

「3・11」1周年イベントは、同会メンバーでもある金成日さんが呼びかけ、有志で準備を進めた。3・11夕方のライブは、7組のアーティストが協演した。ブルース・ ソロギター(奏者は全国大会2位の実績)から奄美民謡まで、多種多様。

役者を干されても反原発活動を継続する山本太郎のお姉さん(尼崎在住)をゲストに招いてショート・トークも行われ、裏話も披露された。「弟が反原発活動にのめり込んだのは、私の影響」と語るお姉さんのブッ 飛んだトークで、駅前は大いに盛り上がった。

2日間の主役となった、3・6b×5・4bの反原発シートは、今後「反原発アートゲリラ」に引き継がれ、駅前・関電営業所ビル・広場など、あらゆる場所を表現の場に、反原発を訴えていく予定。  

名古屋   大ナゴヤ大サウンドデモ

福島―東京―関西 地域の温度差を考える重要な位置

菊地 夏野 (おきく)

3月10日と11日の週末に、名古屋で脱原発のデモや集会が行われた。私は、10日の「3・10 さよなら原発アクションinあいち―いのちの集会」に参加した(参加者数800名)。

集会を主催した「3・10さよなら原発アクションinあいち実行委員会」は、様々な団体・個人で構成された。1年前の3・11以来、名古屋でも様々に反・脱原発のデモ・パレードが行われてきたが、この日はそれらが合同して行われた。わたしが少々関わった若手中心のサウンドデモも合流した。

名古屋でも世代によって社会運動への思いや表現スタイルが異なり、対立的に捉えられてしまうことも少なくない。そういう意味でも今回、ともにやれたのは有意義だった。また、警察により数十人ごとのブロックに分けられたが、かえって、各のグループのカラーを保てる結果にもなっていたのは面白かった。

上記のサウンドデモ(大ナゴヤ大サウンドデモ)は、昨年6月11日に行われた「原発サヨナRiot GRRRL!!」というデモパレードから拡大発展したような流れで、フェミニズムのスタンスを明示する意味は消えてしまったのは、個人的に残念ではある。ただ、その経緯も名古屋の現状を示しているのだろう。

それを保留すれば、大ナゴヤ大サウンドデモは、誰でも参加しやすいリラックスした空気で、音楽やMCとともに脱原発のメッセージを表現できていた。

今回の震災は、東日本と西日本で人々の受け止め方がずいぶん違うように感じる。関東はやはり敏感だが、関西はまた違う雰囲気を感じる。その狭間にある名古屋・東海地域は、東京に近い浜岡を抱えているし、脱・反原発運動の展開を考える上で重要な場所だと思う。

 安易な家族主義や母性主義への依存は悲しい

最後に、今回のことに限らず、脱・反原発運動全体に感じることだが、「放射能は幼児により一層の影響がある」ということもあり、「子ども」「親」「家族」の役割が強調されることが多い。

しかし、子どもは親のものではないし、家族であろうとなかろうと、大事な関係は尊重されるべきだ。母親ばかりが子どものことを思うものでもない。脱・反原発の主張を拡げるために、安易に家族主義や母性主義に寄りかかられると非常に悲しい。

このような批判的な思いはたいへん出しにくいが、我慢することなく互いに語り合って、新たな運動の言葉を探していきたいと思う。

大阪  さよなら原発3・11関西1万人行動

4会場で1万人超  大飯原発再稼働阻止!

編集部 一ノ瀬輝博  

3月11日、大阪・中之島公園一帯で「さよなら原発3・11関西1万人行動」がおこなわれ、多くの市民・反・脱原発団体・市民団体・労働組合など7000人が集まった。

集会場となった中之島一帯は、早くから人が集まり、会場は様々なのぼり・デコレー ション・風船などで、カラフルに彩られていた。

3つのエリアに分散しておこなわれ、それぞれの会場で、村上真平さん(飯舘村/自然農園エコビレッジ)や長谷川健一さん(飯舘村/酪農家)など、福島からのアピールがあった。

同時に、関西で「原発」を語る上で避けては通れない、「原発銀座」と称されるほどに原発が密集した福井からのメッセージが寄せられた。特に大飯原発3・4号機は、政府・関西電力が再稼働への「露払い」として強行突破しようとしているため、美浜からのメッセージは、危機感が感じられるものだった。

美浜町・森と暮らすどんぐり倶楽部代表の松下照幸さんの講演は、「美浜の人たちの民意は脱原発」なのだが、雇用などの面で「原発があることの不安、原発がなくなることの不安」があるために、「電力を使っている都市の人々が言わない限り止まらない」という、原発をめぐる大きな問題を指摘するものだった。

集会後は、会場毎にそれぞれ別のコースでデモ行進を行い、道行く人々に「脱原発」や「再稼働反対」などを訴えた。デモでは、思い思いのメッセージを書いた手作りのプラカード、横断幕などをもつ人が目立ち、「自分の言葉でアピールしたい」との想いが伝わってきた。

またこの日は、扇町公園でも共産党系の集会「なくそう原発3・11府民1万人集会」がおこなわれ、8000人の参加者があった。

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