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更新日:2008/06/05(木)

[コラム] 栗田隆子/空き地

20年ほど前、東大・安田講堂で公開講座を聴講したことがある。何の講座か忘れてしまう程度の内容であったのは残念だったが、その際に忘れられなかった光景がある。それは安田講堂の前の奇妙な植え込みとベンチだ。奇妙と感じたのはかつて「映像」として見た大学闘争における安田講堂を思い出したからだ。

その頃の講堂の前は広い「空き地」だったはず。そうでなければ講堂の内外で集会なんてできるはずがない。「何だろう、この植え込みは」と思ったまま、それきりとなっていたが、後から聞いた話によれば大学闘争の後にあの植え込みとベンチが設置されたとのことだった。つまりは佇むこと、群れることを許さない空間となったのだ。

私にとっては「空き地」を失くし、群れを消そうとするその欲望こそがもっとも対峙するべき何かだと思っている。前の連載でも話したとおり私はスポーツであれムーブメントであれ活動は苦手だ。つまりは「ぼーっ」としていることと、それが可能な場所を好む。更に言えば「ぼーっ」とするもよし、走り回るもよしという場所で、なお、「ぼーっ」とできる状態を死ぬほど望んでいる。

全共闘の学生が生み出そうとしたものがそういう空間であったかどうかは分からない。しかし群れること、意味づけが単純でない場所を消そうとする欲望は、その後大学という枠を軽々超えて社会の中に様々な形で具現化されてゆく。

例えば私の家の近所で「フードセンター」と(由来不明)呼ばれていた「空き地」のささやかな、でも決定的な「喪失」において。ネコの集会場でもあり、町内会のラジオ体操の集合場所、子どもの自転車の練習場でもあり、当然鬼ごっこ・かくれんぼ・おままごとの場所でもあり、そこでイジメたり、イジメられたり、喧嘩したり、怪我をしたりして本気で大泣きする場所でもあり、そして泣き疲れた後に「ぼーっ」と一番星を見るに相応しい空き地。そんな地域に根ざした場であったにも関わらず、呆気なくバブル期にセカンドハウス用のマンションが建ってしまったという喪失の事実。

空き地は当然単純な自然状態ではない。空き地=自然であるならば、都市には少なく地方には溢れているという話になるが、そう単純な話ではない。人が何気なく集まる場所こそが私の考える空き地。それは一旦潰されたらそうそう再生されるものではない。森林の生成と同様に10年単位の問題だ。ただの「敷地」から、まず雑草が―子どもの目線とぴったりと合うタンポポやオオイヌノフグリが生え、紅色のオシロイバナが咲く。ネコ達が集会をするようになる。そしてようやく子どもが訪れ、大人も子どもに連なって現れるようになるまでは、森ができるくらいの長い時間がかかる。そして当然公園とは違うのだ。

古田足日の『モグラ原っぱのなかまたち』(あかね書房:初版1968年)という40年も前の童話を読むとそれがよく分かる。そこに出てくる小学生は「モグラ原っぱ」と名づけられた空き地が団地建設でなくなる事に反対するため、木に登り原っぱを占拠する。団地の中に公園を作るという市長(!)の説得で木から降りるのだけれど、一年後完成した公園を見て、「全然違う!」と叫ぶのである。かつてテント村のある長居公園を写真で見たとき私にはそこは「公園」ではなく「空き地」に見えた、その思いと重なってゆく―。

ただの空き地がほしい。活動のあらゆる手前にある「場所」として。これが掲載される頃には既に終わっているメーデーだけど「空き地がほしい」と叫んでみようか。あらゆるものを生み出す「空」の場所への限りないオマージュを込めて。シュプレヒコールとしては少々間抜けだが。

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