いま教育現場に何が起こっているのか3 「日の丸・君が代」 |
いかに「ひのきみの教育的効果」を減じるか(木坂明) |
2003年 12月5日
通巻 1163号
「日の丸」を強引に掲揚されてもその「効果」を減じることはできる教育現場に「日の丸・君が代」が存在していること自体が、「国家主義」「天皇賛美」「思想統制」等の様々な問題が象徴しています。そして、これらの記号の押しつけられ方にも重要な問題があります。 「日の丸」は、現在多くの学校では式場の正面に掲揚されており、その前の位置に「校長」と「教壇」が据えられています。ですから、式の参加者が校長に挨拶をすると、第三者の目には、日の丸に対しても敬意を払っているかのように見えます。ただ、このあたりは教職員との力関係であり、式場の正面に堂々と掲揚することができず、ポールに結ばれて、ひらひらふらふらするだけで、あまり「教育的効果」をもたらさない例もあります。 今年の段階では、式場に導入することさえできずに、校門や運動場、時には屋上や校長室に掲げている状態をもって、教育委員会に「本校では掲揚した」と報告しているような例も幾つかあります。もちろん入学式や卒業式に不要なものであり、存在しなければ一番よいのですが、「日の丸」に関してはその「押しつけ方」には様々なごまかしが可能です。たとえ強引に掲揚されても、その「効果」を減じ、生徒への影響をかなり少なくできるような状況もあり得ます。 管理職昇進の「踏絵」と化し、「人権教育」とも矛盾する「君が代」しかし「君が代」については、権力側は物的証拠として「式次第」に文言を挿入することに固執します。ただこれも、教職員との力関係により色々なパターンがあります。一九九四年頃から、張り切って「斉唱」を導入し始めた大阪府下の高等学校の管理職たちも、当初は式次第に入れないで、式の開始前にいきなり「君が代」をテープで演奏するのが精一杯でした。 式参加者から見れば、式の開始前に「一同起立」の号令が教頭からあり、いきなり「君が代」が流され、その後「開式のことば」が入って、本来の司会者が式を進めてゆく、というようなことが一般的でした。 それが、二〇〇〇年頃から強引に「式次第」の中に、「国歌斉唱」が挿入されていきます。人権教育推進の高等学校で、上下をつくらず、教壇もなく、生徒が円形になって「卒業生を送り出す」形式のような「卒業式」でも、「式次第」には「国歌斉唱」が無理矢理入れられたりしています。こうした現場では、来賓と管理職の一部が君が代の歌詞を「音声化する」だけで、教頭が手に持ったテープデッキからカラオケの音がしらじらしく流れるだけで、多くの人は沈黙し、却って「君が代」が浮いているような印象すら受けます。 また、「式次第」にはただ「国歌」とだけ記され、「式の始まり宣言」が二回あり、「君が代」が流されるのは二回目の「始まり宣言」の前で、その時間帯に式場にいるのは保護者と管理職だけ、というような学校も、今年の段階で幾つかありました。 いずれにせよ、「日の丸」も「君が代」も闘争は継続しています。だからこそ東京都では今秋、「細目」を通達し、より「教育効果」が高まるような式のあり方を、わざわざ文書で通知したのでしょう。「教育勅語」を式典で暗誦するような来賓も、大阪で出現しています。形式だけ「日の丸」や「君が代」が導入されても、その効果はあまりあがっていないことに対する「焦り」のようなものも感じ取れます。 「元全共闘」を自称する管理職が、自ら生徒に対して君が代歌唱次第をしたり、酒の場では君が代に問題提起している社会科教師が、管理職を目指して、会議の場で「君が代推進」の発言をしたりします。君が代を踏み絵として、管理職になるための資質が試されるような状況で、一人一人の教職員は厳しい状況におかれています。ほぼ全員の教職員が反対していても、「君が代」の部分だけを勝手に管理職が司会進行して「君が代斉唱」がなされ、暗澹たる気分になったりもします。無力感もあります。 人権推進教育との大きな矛盾が放置されていることに怒りも感じます。いかに「ひのきみの教育的効果」を減じるか、という闘いが今後ますます重大です。 |
人民新聞社
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