【渡辺雄三自伝】「奔流する時代を見つめ続けて」 |
第一回 |
2003年 11月15日
通巻 1161号
編集部より「人民新聞」では、過去の運動・経験の共有と議論を目的にして、様々な人たちの半生を振り返りながらの総括を掲載してきました。そして、今号から新たに本紙の初代編集長である渡辺雄三さんの自伝を連載します 渡辺さんは、旧制中学在学中に日本共産党に入党。敗戦直後の「血のメーデー事件」「山村工作隊」などを当事者として体験。労組専従・「中国新報」記者をへて、「人民新聞」の前身である「新左翼」発刊を編集長として主導しました。 90年代、ソ連・東欧の社会主義体制崩壊に際して「理論的正当性を喪失」した渡辺さんは、サミール・アミンをはじめとする内外のマルキストとの交流の中で、再度確信を取り戻します。時代の転換点といえる昨今の情勢の中で、「社会変革の主体」である私たちが、先人たちの遺産を継承していくことの意義は大きいものがあります。この渡辺さんの連載を契機に、過去と現在・未来の闘いをむすぶ議論を広く呼びかけます。 (編集部) 「郷士」だった両親の実家両親の生地は福島県郡山市から入った山村で、両親の家は共に「郷士」という身分でした。封建的な風土の強い所では、結婚は家同士の結婚であり、個人の意思に基づく結婚などありえず、私の両親の結婚も郷士の家同士の結婚でした。 郷士とは東北地方特有の身分で、豊臣秀吉が兵農分離を行った際、武士を農村から切り離して城下町に住まわせたのですが、東北地方は武士と農民との境目が曖昧だったため、在地の武士を認め、彼らの身分を郷士と名づけました。 それゆえ、資本主義の発達と共に、東北地方で郷士から寄生地主制が発展していったのは、当然の流れでした。私が帰省していた頃を思い返すと、母の実家は二階建ての広大な 屋敷であり、三頭の牛がいました。 二階は蚕室になっており、蚕が桑の葉を食む音で熱気に包まれていました。女達が桑の枝を入れ替えるため、気ぜわしく働いていたことを思い出します。 父の話によると、祖父は水戸藩から勤皇派の国学者を村に招いて農民を集め、彼らに国学を教えさせていました。明治維新の直後、廃仏毀釈運動が発生しますが、この時、彼は村の寺から僧侶を追放し、寺領を乗っ取って土地を配分した、と言っていました。 それで、私の家には仏壇がなく、葬儀も神主を呼んで神道で執り行っています。明治維新の混乱期に祖父は土地・屋敷を全て手放してしまい、残った僅かな土地も小作に出していました。 小学校を卒業した父は、福井県の中学校の教員をしていた兄の家に引き取られ、福井中学を卒業後、逓信省官吏練習所に入り、定年まで逓信省の中級官吏として地方を転々としていました。 父が生まれたのは郡山の在でしたが、母が生まれたのは、その奥の三春の更にもう一つ奥にある船引町の山合いの村でした。三春は三万石の三春藩の城下町、三春藩は秋田の徳川藩の支藩でした。 母方の祖父は手広く事業を営んでいました。造り酒屋、養蚕、煙草・生糸・絹織物の取引等々、地元の産物を扱って商売をしていました。 明治七(一八七四)年、福島県令(県知事)として着任したのが、鹿児島県出身の三島通庸 でした。彼は着任するなり大規模な公共土木事業に着手し、その費用を税金で賄おうとします。 当時、国の法律制度が未整備だったので、彼は勝手に様ざまな租税制度を創設し、税を課します。これに反対する町長や村長の首を切り、議会を解散し、遮二無二強行しようとしたので、県政は混乱の度を深めていきます。 その中で立ち上がったのが、三春生まれの河野広中でした。彼は明治一四(一八八一)年、自由党福島支部を結成、三島県政反対の狼煙を上げます。 明治一五(一八八二)年、県道の建設計画を巡り、三島県令と県議会とが全面対決となります。この時、でっち上げられたのが、河野広中を首謀者とする三島県令暗殺未遂事件でした。 自由党福島支部員に対する警察の取り調べは過酷を極め、地元の人々にとってこれが深い心の傷として残り、後世に語り伝えられました。私もこの話を母から何度も聞かされました。 私の母の父、すなわち私の母方の祖父は、河野広中への資金提供者、今風にいえばパトロンでした。これは、地元の産物を手広く扱って商売をしていた関係上、当然の成り行きだった、と私は推測しています。 その後、河野と私の祖父とは仲たがいしましたが、私にはその理由は分かりません。多分、祖父が事業に失敗したことと、河野が借金の返済を拒否したことが原因だったのではないか、と私なりに推測しています。 母は尋常小学校だけで、高等科に行かせてもらえなかったことを恨んでいましたが、その折、「蔵の中は河野広中の借金証文で一杯だった。あれを背負って東京の河野の屋敷の前に積み上げて、返済を迫りたかった」と、悔しがっていました。 その後、河野は衆議院議員となり、自由党の後身である民政党に所属し、明治の終わりには農商務大臣にまでなっています。 母の長兄、助川啓四郎は東京専門学校(早大の前身)を卒業後、村に帰り、村長になり、政界へ進出し、県会議員、衆議院議員となります。所属政党は自由党の後身である民政党でなく、政友会でした。こんなところにも、河野広中と祖父との確執が尾を引いていました。 そんなわけで、私が生まれた時、既に私の家は助川後援会東京支部事務所のようなものでした。日曜日になると、家には田舎から東京へ出てきた若者が集まり、政治談義に花を咲かせていました。 政治談義といっても高尚な話でなく、地元の対立する政治家や応援者のミスや他愛も無い悪口の類が多かったように記憶しています。母も彼らの面倒をよく見ていました。 そんな環境の中で小さい時から育ったので、どの家でも家の中で日常政治の話をするのが当たり前だ、と思っていました。普通、家の中で政治の話はしないものだ、と知ったのは、大きくなってからでした。 自由放任だった幼年時代私は三人兄弟の末っ子でした。長兄は後継ぎとして育てられ、私が気付いた時には、既に二階に勉強部屋を与えられ、後継ぎとして育てられていました。 姉が不幸な子供時代を過ごしていたことを知ったのは、姉が結婚してからでした。子供の頃、姉が泣いていたり、元気がなかったりしていたことがありましたが、これは身体が弱いからだ、と私は思い込んでいました。母親から理由のない折檻を受けていたことを知ったのは、私が大きくなってからでした。 母は祖母に過度に厳しく躾られたため、その心の傷から自分の娘を心から愛することができなかったからだ、と私は推測しています。 祖母は三春の城下町に住む武士の娘でした。それが郷士とはいえ、田舎の山の中の家に嫁いできたため、「周囲の小作人や貧乏百姓に馬鹿にされまい」と彼女は張り切り過ぎて、私の母の心を傷つけたのでしょう。 母は子育てに失敗したことを気付いたのでしょう。私は自由放任、気ままに育てられました。 私の子育ては、「姉やん」任せでした。ご飯を食べ終わるや、一人でトコトコと女中部屋へ歩いていき、寝ていたといいます。あまり静かなので見に行ってみると、ケタケタ笑いながら一人遊びをしていた、と母が言っていました。あまり寝てばかりいたので、私の頭は絶壁で、小さい時、兄や姉から「絶壁頭」とからかわれていたことを思い出します。 私は子供の時、親に「してはいけない」と、叱られた記憶はありません。私が母親に大事にされたのは、もう一つ理由がありました。それは、私が体温が高い体質なので、冷え性の母は冬寒くなると、寝ている私を抱いて、自分の布団の中で漬物石のように抱きしめていました。 子供時代の私にとって忘れることの出来ない友達がいます。それは、一〇年以上にわたって一緒に暮らした猫の「ミイコ」でした。私が三つの時貰われてきたと記憶しています。 私が一四歳の時、私の目の前で食べ物を吐き出したので見ると、その中に大きなサナダ虫がいました。私が驚いてそれを始末すると、ミイコはいなくなり、そのまま帰ってきませんでした。 冬になると、私の布団の中に子供をくわえてきて、寝ていました。それで私は小さい時から蚤と一緒でしたが、「嫌だ」と思ったことはありませんでした。 魚はどんなに隠しても探し出すし、食べ物を見つけることには執着心が強く、お櫃の蓋をひっくり返してご飯を食べたので、油断できませんでした。 鼠もよく取りました。猫は鼠を取ってくると、必ず飼い主に見せ、誉めて貰おうとします。そして、鼠を一旦逃がして追いかけ、取り押さえては放り投げ、精一杯弄んでから食べます。母はこれを決して制止しようとしませんでした。理由は「それをしたら、猫は鼠を取らなくなるから」でした。ミイコが鼠を取ってくると母は誉めてやり、六畳の間を締め切って、鼠を食べ終わるまで、猫の自由にさせていました。 その後の掃除が大変でした。唐紙や箪笥、畳に鼠の血が着き、鼠から落ちたノミやシラミはいるし、掃除が大変でしたが、母はミイコに満足するまでやらせていました。これに幼い私は大きな影響を受けました。 (つづく) |
[ 「特集」〜その他へ ]
人民新聞社
このページは更新終了しております。最新版は新ページに移動済みです。