脱暴力を呼びかける 第8回 |
暴力で権力を獲った者は
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「男のための脱暴力グループ」 水野阿修羅 |
2003年 11月5日
通巻 1160号
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「人権も男女平等も人間関係の民主化だ」アメリカのブラックパンサーは、「自衛のために」銃をもったが、内部の人間関係を民主化できないまま、権力の介入もあって、ヘゲモニー争いと内ゲバで自滅していった。権力の介入のすごさは、二〇年後に裁判やドキュメンタリーで明らかにされているが、「なぜそんなに簡単に権力のスパイや介入を受けやすかったのか」を考えてみる必要があると思う。 ソ連が崩壊した理由の一つ (主要ではないが大切なものと考える)に、「女性問題」がある。ソ連は社会主義国として女性も働くべき(「働かざるもの食うべからず」という言葉もあったが)として、大量の保育所を作り公共運営をした。女性に労働も家事も育児も望んだのだが、男性には労働しか望まなかった(ちょっと言い過ぎかもしれないが、ソ連時代の女性の実感)。家庭の中での男女平等は個人まかせで、国は介入しなかったため、男たちは政治を語り、家のことは何もしなかった人たちが圧倒的だった、という。 「タテマエ」としての「男女平 等」は、こんなものだった。それに対し、資本主義国のスウェーデンの方がはるかに進んできたことを考えると、「人権」とか「男女平等」とかいうことも、「人間関係の民主化」だと考え直さなければ、「官僚制打倒」も「スターリン主義打倒」も、新たな「官僚」や「スターリン」を生み出すことにしかならない。暴力で権力を獲った人たちは、余裕のない時、やはり暴力 で人をコントロールしようとする。それに反対する人もまた、抵抗のため暴力を選ぶ。そして果てしないくり返しが続く、と言ったら「言い過ぎだ」と反論されそうだが…。 「怒りのエネルギーをプラスに使う」話を戻すと、左翼も男社会だったことは自覚して反省しなければいけないのだが、上下関係でない水平な人間関係というのは、旧来のマルクス主義の中に実体としてはなかったということだろう。「民主集中制」なんて言葉はかっこいいの だが、つまるところ独裁を隠す役割しかしてこなかった。 「人権」とか「男女平等」を唱えている活動家が、一番親しい人との間に民主主義をつくりえてこなかったことを考えてみたい。「内ゲバ」もこの点から考えると、ちょっと違ったものが見えてくる。 外で頑張っている人は、家庭は憩いの場として、パートナーに「母の役割」を期待し、一方的に甘える。女性がこの「肝っ玉母さん」役割をすることを望む人なら、それも何とかうまくいくかもしれないが、今の時代そ んな女性は少ない。まして、外で働いている女性は、男性と同じようにストレスにさらされているし、「主婦」でも子育て中はストレスが多い。男性が、一般論としての「女性」ではなく、パートナーの「感情」に気付かなければ、口先のことばやテクニックでは問題をこじらす。 男社会では「強さ」が求められ、「弱さ」を見せないことを要求されると、「やさしさ」をどこかに捨ててきたりする。そこに女性が「弱さ」や「やさしさ」を示すと反発したり、馬鹿にしたりする。 「不満」「怒り」が権力に向かってうまく発露されている時は、「身内」にやさしくなれるが、抑圧されたり、発散させられないと、その不満が身近なところに向かう。 差別・抑圧された人の「怒り」の感情は大切なものだ。「怒り」の感性のない人は、立ち上がるエネルギー源を持たないのと一緒だろう。 問題は、その「怒りのエネルギー」をプラスの方向に使う方法を知らない人が、そのエネルギーを誤って弱い立場の人に向けることだろう。 (つづく) |
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人民新聞社