■問うべきは私たち1人1人の「生き方のスタイル」。
「同性愛者」を中心としないクイア運動を目指そう!
昨年のことです。パレスチナ関係で知り合ったある活動家と話をしていて、嫌な思いをしました。その活動家は、様々な人権問題についても総合的な取り組みをたくさんしている、その筋ではとても人望のある人です。飲み会の席で、その人に軽く「レズビアン・ゲイ・パレード」には問題がある、と言ったら、全く耳を傾けてもらえなかったのです。セクシュアルマイノリティの人権にも配慮しているという感じで、その人は、「レズビアン・ゲイ・パレード」がいかに大切か、私に説こうとしたのでした。
最近では、人権行政においても「性的指向を理由とする差別をなくそう」ということが公式に言われ、パンフレットなどにも明記されるようになりました。いろいろと問題もあって可決はされていませんが、国会に提案された「人権擁護法案」にも、性的指向を理由とする差別の禁止が明記されています。
10年前には考えられない状況です。以前は「性的指向」なんて言葉は、誰も知らなかったし、そういう「個人的な趣味の話」が社会運動の現場で耳を傾けられることはありませんでした。そういった意味では、ずいぶんと状況がよくなった、とも言えます。
■「目の前にいる、うっとうしい少数派」と
どう向き合い、どう関係をつくっていくのか
でも、本当に社会や人のあり方は変わったのでしょうか。
性的指向の問題をクイア運動の立場から主張する私にとっては、大切なのは「同性愛者が尊重される」ことではありません。大切なのは、その場所での少数派、その場所では皆の合意になっていないことを言う人、その場所ではあまり価値がないと見なされていることを言う人、その場所で周りにうっとうしがられる主張をする人、そういう人たちの権利が大切にされることです。
少なくとも少し前までは、レズビアンやゲイの権利を主張したり、同性関係嫌悪(ホモフォビア)を問題にしたり、自分の同性との関係について話すことは、そういう位置にありました。しかし先にも見たように、状況は変わりました。比較的良質な社会運動の中においては、むしろ逆に、同性愛者の権利を擁護したり「レズビアン・ゲイ・パレード」を支援することが、差別と闘う「かっこいい」あり方として認知されるようになってきました。
そしてそういう時には、有名なゲイの活動家の発言が引用されます。場合によっては自身でも講演会を開催し、有名なゲイの活動家の分かりやすいお話を聞いて、「差別はいけない」と安易に頷くのです。
しかし、今現在において名の知られたゲイの活動家であるということは、「私たち」のコミュニティ、様々な性的被抑圧者たちのネットワークの中においては、権力者である、マジョリティーであるということを意味しています。そのことに自覚的な著名なゲイの活動家は、残念ながら本当にごく少数でしかありません。
例えば現時点において「レズビアン・ゲイ・パレード」の開催を提案するということは、少なくとも「私たち」のコミュニティ/性的被抑圧者たちのネットワークにおける「レズビアン・ゲイ」以外の人たち、例えば少なくとも「バイセクシュアル」や「トランスジェンダー」の人たちを、わざわざ二級市民扱いする行為です。
例えばバーやクラブに実際に行ってみればあまりにも明らかですが、世間に流通する「男女という制度」にはずれた様々な人たちこそが「私たち」のコミュニティと運動を歴史的に形成してきました。「同性愛者」はその「私たち」の一部分でしかありません。しかしなぜか、「私たちのコミュニティ」は「同性愛者のコミュニティ」であると偽られ、レズビアンやゲイというアイデンティティを持つ人たちの意見が、ことさら表に出るような力関係が造られてしまいました。
■人権を尊重するふりをして一部のゲイ活動家の発言を無責任に持ち上げ、
とどのつまり隠れ蓑にする「リベラルな左翼活動家」や多数派たち
実際に関西でも「レズビアン・ゲイ・パレード」という名前でパレードをしようという動きが2000年にあり、私はそこにある同性愛者中心主義を強く批判しました。まさにクイア系の活動家として今を生きようとする私は、少なくとも「私たち」のコミュニティの内部においては、そこにある同性愛者中心主義や、男性中心主義、そして健全者中心主義、日本人中心主義などを、少しずつ問題提起しています。「『今ここにいる』少数派を尊重する」という文化を、何よりも私たち自身が身につけていくためです。
一部のゲイの活動家たちは、自分たちの持っている特権を振り返るかわりに、社会のマジョリティと共犯関係を持とうとしているように、私には思えてなりません。コミュニティにおける様々な意見の違いと向き合って「私たち」の合意を形成するために努力することを放棄しています。そのかわり、ウルトラマジョリティにことさら「同性愛者の権利」を単純化して訴えます。そして実際、「同性愛者」が世間の多数派や「リベラルな左翼活動家」に認められる存在になることで、今度はコミュニティにおける同性愛者の権力が強化されます。また逆に「リベラルな左翼活動家」や多数派は、人権を尊重するふりをして一部のゲイ活動家の発言を無責任に持ち上げ、とどのつまり隠れ蓑にすることで、自分がこれまで持っていた特権を手放さなくても済むのです。
今私たちが問うべきことは、以下のようなことです。「目の前にいる、うっとうしい、少数派」とどう向き合い、どう関係をつくっていくのか。これまで少数派を無視黙殺できてきた自身のあり方をどう反省するのか。多数派の1人1人に対して、そして自分自身に対して、こういった「生き方のスタイル」を問おうとしない「マイノリティー運動」は、実は世界を何もつくり替えないのではないでしょうか。
本当に少数派がないがしろにされない、ということは、「少数派の中の少数派」がないがしろにされない、ということでなくてはなりません。「同性愛者」や「レズビアン・ゲイ」をことさら中心にした考え方や運動は、まさに世間と同じマジョリティー文化そのものであることを忘れてはなりません。
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●ひびののページ http://barairo.net/
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(付記-1)「バイセクシュアル」を差別することを公然と開き直っている伏見憲明さんの発言についても、いつか検討したいと思います。
(付記-2)公安調査庁に対して社会運動内部の情報を提供し、そのことを現在も自己批判していない宮崎学さんの文章を掲載するという点では、本紙「人民新聞」の編集方針に、私は反対です。
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