クセンティス |
後藤和夫 |
2003年 4月5日
通巻 1140号
お金以外に切実なものが私たちにあるのか? 実感のない空しい風 イラク戦争の報道を眺めながら、「愚かな帝国」の蛮行に腹を立てつつも、何かしら空しい風を感じています。 先日21日、芝公園から銀座までのデモに同行しました。先月からデモに参加する人々の数は増え続けています。しかし、銀座通りでは、デモに参加する人より圧倒的に多い人々が、交差点で信号待ちをし、喫茶店を満員にし、お店を満員にしていました。デモを眺めやる表情は皆「私に何の関係があるの?」と言っているようでした。多くの普通の人の実体は、こちらにあると言っていいでしょう。でも、その人たちの表情に生き生きとした「今」が読みとれません。 戦争の実感なんか何もない。 世界の実感なんて何もない。 現在の実感さえどこにあるのか。 同じ普通の人間が、たった今爆撃下で死のうとしている。が、「同じ普通の人間」を共有できない距離ができてしまっている。 不思議なことに、今いちばん生き生きしている日本人は「反戦を叫ぶ人」と戦地からリポートを送る報道陣のような気がします。それはまるで、初めて世界を実感しているようにも見えます。それは世界と自分との回路を必死に見つけ出そうとしている悲痛な叫びにも見えます。そして、それを肯定的に見ている私がいると同時に、無関係でもいられるという事実にも愕然とするのです。 生きる実感はどこに? こんなにも私たちは遠くにいる。こんなにも私たちは世界の実感からよそ者にされている。どうしてなのか。 こんな時どうして?と思うかもしれませんが、明日からカンボジアに行きます。カンボジアの地雷撤去を援助しようという若者たちの同行取材です。それが終わったらそのままパレスチナに行きたいと思っています。イラク報道の陰で、パレスチナで何が起こっているのかが気がかりだからです。私は私で、世界との回路を捜し求めているのかもしれません。 かつてベトナムに行った時、ある農夫が言いました。「もう二度と、主義と主義とで私の大事な土地の上で戦争なんかして欲しくないんだ」それは土地こそが生きる実感であった農夫の素朴な真実でした。 カンボジアにもまた豊かな大地があり、そこに生きることに偽りのない実感を持つ人々がいます。同時に、長い内戦が残した、主義と主義のぶつかり合いが残した負の遺産=地雷に苦しむ人々がいます。イラクの人々もまた、長い戦火に苦しんできたし、これからもまた苦しむことでしょう。生きること自体が切実です。 私たちの生きる実感のある土地とはどこにあるのか、私たちの素朴にして切実な真実はどこにあるのか。お金以外に切実なものが私たちにあるのでしょうか。果てしなく遠い世界との距離。 私はナショナリストではありませんが、自身のナショナリティについては考えることがあります。 ※クセンティス=どこにいてもよそ者 |
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人民新聞社
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