[インタビュー]アフガン・カブールは今
戦後復興で目まぐるしく
変化するカブールの街

中城繁男さん

2003年 2月5日
通巻 1134号

 昨年12月末に地雷の被害にあった人たちへの義足ボランティアに随行して、アフガンに1週間足らずほど滞在した、中城繁男さんのインタビューを紹介する。意外にも大変な活気ぶりだというカブールの様子を伺った。 (文責・編集部)

──カブールの様子はどうだったのですか?
 とにかくもう、すごい活気があった。カブール川からずっと南の方に行ったところが旧市街で、内戦時代にメチャメチャになってしまったけれど、それが復興して、ずーっと、商店街が何キロと続いていたね。
 今のカブール市街でも、建物はコンテナを活用したバラックだけど、それも同じように、商店がずーっと並んでました。
──そんなに店があっても、商品はあるんですか?
 商店街を見て回ると、自動車部品は自動車部品の店がずーっとあったり、肉は肉屋がずーっとあったり、穀物は穀物の店…という風に並んでいて、もうあらゆる商品が、信じられないぐらいありました。
 食料も、果物とか野菜・穀物がすごい豊富。土付きの状態で店頭に並んでたりしていた。
 中国からの輸入品が多かったかな。商店街の前に、発電器がずらーっと並んでいて、それでもって電気を引いていたけど、それがみんな中国製。音は日本のより静かだった。それと、トイレットペーパーも全部中国製。だから、中国からの人間も結構いて、商店街に行っても、『中国人か?』っていう感じで聞かれたりした。あと、女性のブルカは、韓国製だった。 
──意外ですね。買うお金とかあるんでしょうか? とにかく仕事がない、という風に聞いてますが…。
 うーん。でも、それだけ店があって、モノがある、ということは、どこかに「ある」ということになるんだろうね。
 仕事は、確かになさそうだった。大の大人が、昼間からぶらぶらしてるんだから。
 そんな中で、タクシーが多かったように思う。街を走っている車の4分の1程度は、タクシーだった。車を買う金は、いくら掛かるのか知らないけど…。
 ちなみに、8〜9割が日本車で、その中の7割がカローラという話。カローラはすごく有名で、みんなに信頼されてました。
──そうすると、空爆とか銃撃戦といった、きな臭い雰囲気はもう無いんですか?
 「あの山を越えたら、タリバンの基地だから危険」という話は聞いたね。でも、街の中では緊迫したような雰囲気はなかったよ。ホテルのロビーで機関銃を持って警備している兵士や、休暇中のアメリカ兵士が、服から銃身をはみ出させながら歩いているのに会った時はびっくりしたけど。
 そりゃアフガンの郊外に行けば、まだまだ援助が必要な場所、緊迫した状況が続く場所は多いだろうし、私が見た範囲の中でも、内戦で破壊されたままになっている場所もあったけれど、商店街はもう本当に活気であふれていた。タリバン撤退のずっと前からでないと、あそこまでの賑わいはないと思う。
 タリバンについて言うと、報道されてきた「タリバン=悪者」というのは、マスコミで都合のいいところだけを大げさに報道した、という部分もあるように思う。女性のブルカでいうならば、イスラムの世界そのものが、女性を外に出さないのだし。外で女性を見かけたのは、男の100分の1ぐらいだったかな。ブルカを脱いだ女性というのは、さらに少なかった。
──人々の様子はどうだったんでしょう?
 みんな、もうすごい気さくな人ばかり。愛想がいいし、親近感が持てる。さっき話したみたいに「中国人か?」と聞かれるんだけど、「日本人だよ」って答えると、「おー、日本人か!」って言ってくれる。
 街では、物乞いをする人をよく見かけたね。向こうでは、子どもは、まず必ず手を出してくる。でもアフガンでは身内が多いし、イスラムではお互いに助け合うっていうのがごく普通になっていて、ごく自然に助け合う、という精神があるから、それで何とかやっていけている部分が大きいのは、はっきり感じられました。
 今は、戦後復興の勢いで、わーっとなってるんで、状況がドンドン変わっていってる。カブールの人たちが、カネに細かくなってきたりするするのもそういうことなんだろうね。
 もう1度行って、じっくり歩き回ってみたいと思っています。

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