子どもが装甲車で遊ぶという「戦争」の現実
「あの建物は、タリバンがいたからやられたんだ」と、16歳の少年が指を指した。その先には、再建されつつある小さな建物があった。そして、目の前にあったモスクもまた、パキスタン系アル・カイダ兵がいたために空爆され、そこで60人が死んだという。その少年は、すごく寂しそうな瞳をしながら「あれはアメリカ…」と僕に向かってつぶやいた。
それは、カブールから北に2時間ほど行ったカラバーという町で誤爆被害調査をした時の事だった。
そのカラバーという町に行った時、そこで思ったことは、生活の中にあまりに戦争の傷跡が「残りすぎている」ということ。そこにはソ連侵攻時代に放置された装甲車が数台あった。そして、子どもがその上によじ登り、僕に「 写真を撮って!」と大声で叫んだ。僕は、子ども時代におもちゃの装甲車で遊んでいたが、アフガンの子どもが本物の装甲車をおもちゃにして遊んでいる光景に、「戦争」という現実をリアルに感じ取った。
もう1人の子どもは、そこら中にできている穴ぼこを指さしながら、「アメリカ!ボム!ヒューン!」と僕に向かって叫びながら、子どもらしい屈託のない顔で笑った。後に、その穴は家を造るために掘られただけ、という事を16歳の少年が教えてくれたが、それでもその一帯には壊れたコンテナボックスや蜂の巣になっている土壁などが散在していた。そして僕らが町を離れる時、小さな子どもたちが追っかけてきて、野宿をする老人を指さしながら「あいつはアル・カイダ!」と言って、また屈託なく笑った。
「本当のアフガン」の真実とは何なんだ?
アフガンは、知れば知るほど、身近になればなるほどに「本当のアフガン」がわからなくなる。アフガンには大きく分けてパシュトゥン、タジク、ハザラ、ウズベクという4つの民族がある。そして、宗教はスンニー派とシーア派の2つがあり、また、男性と女性ではその地位にかなりの差があったりする。そんな複雑な背景の中で、タリバン政権下においてはパシュトゥンがハザラを迫害し、現政権下においてはタジクがパシュトゥンを迫害している、という情報が流れる。シーア派を嫌うパシュトゥンは、アフガン国内で唯一シーア派を信仰するハザラを長い間迫害し続け、バシュトゥンが支配力を持っていたタリバン政権下では、宗教と政治があいまって、タリバンによるハザラ人の大虐殺が行われたりもしていた。そんな状況の中で、逃げざるを得なくなったハザラ人たちは、日本にも来ている。そして今、そのパシュトゥンが危ない、という情報が流れると同時に、町では未だにハザラが殺され続けている、というのがニュースになった。そして、打倒タリバンを軸に結集していた北部同盟ですら、タリバン政権崩壊後、すぐに亀裂が入っていた。
つまり、どの民族のサイドからアフガンを見るのか、また、国内で話を聞く時は、どの民族が力を持っている町にいるのか、目の前の人がどの民族なのか、と言うことをちゃんと理解していないと、1つの質問に対してあまりにもバラバラの答えが返ってくる。そうして聞いてきた声というのは、ある意味全てが真実で、全てが真実と信じられない危うさがある。
僕が、去年の5月にパシュトゥンが力を持っている町、カンダハールに入った際は、話しをしたほとんどの人々が「タリバンは最高の政権だった。麻薬はなくなったし、犯罪も少なく平和だった。タリバンが崩壊してから、麻薬の輸出量は一気に増加し、犯罪件数も増えた」とタリバン政権に賛同し、その政権が崩壊したことを嘆いていた。しかし、今回カブールに入ると、街にはタジクのカリスマであるマスード将軍のポスターが至る所に貼られ、タリバンが崩壊したことを喜ぶ人達がたくさんいた。そして、僕達に大麻を勧めてくる人がいた。そして、タジクに「ハザラは安全か?」と聞くと、「もう安全」と言い、ハザラ人に「あなたたち自身は、安全と思うか?」と聞くと、「私たちハザラは、まだまだ安全ではない」という答えが返ってくる。
アフガンの人々に何が必要なのか?
「なぜ自分たちがアメリカから銃を渡されたのか?なぜ自分たちが今貧困の世界にいるのか?なぜ自分たちはタリバンを倒すために、またアメリカから銃をもらったのか?そういったことを『考えられるようになるため』に今必要なのは、食べ物ではなく教育だ」僕たちが話を聞いたタジク人の医師は強い口調でそう言った。先ほど書いたような「外国による支援漬け状態」をその医師は否定し、自分が大統領であれば外国の支援を一切断ち切るだろう、とまで言った。そして、寂しそうな顔をしながら、「みんな、考える力をなくしてしまって、そこらへんで寝ている」とつぶやいた。
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「国際的なNGOがアフガンにたくさんいる。しかし、ハザラジャには学校も水もなく、とても貧困な生活をおくっている。援助物資が届いていない地域が多くある」と、ロヤ・ジルガ(国民大会議)のメンバーであり、ハザラ難民協会の代表でもあるラフマーニ氏は、ハザラジャ(ハザラ民族が多く住む地域)の貧困を訴えた。
「23年続いた戦争や武力衝突の結果、私たちの国は経済的に、そして社会のあらゆる側面で打ちのめされてきた。特に、ハザラジャは大抵困窮している。十分な学校がなく、したがって人々は教育を受けることができない。日本の人々と政府に、ハザラジャ、特にその文化と教育に関心を向けていだだくようお願いします」と、彼は長いインタビューの後に語った。カブールには物が溢れかえっている、というような報道がされている中で、彼の言葉は都合のいい人々の耳には届かない。「23年も続いた戦争や武力衝突」と、言葉にするとあまりに軽くなってしまうのが現実だ。
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カブールの北にあるビルバチャコートと呼ばれる地域は、タリバンと北部同盟がカブールをとりあって激戦区となった場所であり、実に15kmに渡って、道の両サイドに延々と廃墟が続く。行けども行けども続く廃墟は、原爆投下直後の広島を彷彿とさせるくらいだった。こういった地域が、実に長い時間放置され続けているような状況の中で、何をもって復興というのか?と聞きたくなるくらいだが、ここは首都カブールのすぐ北である。カブールには、実に多くのNGOが事務所を構えて緊急支援・復興支援に当たっている。
しかし、カブールの人々は「誰も私達を助けてくれない」と言うが、インターネットを検索してみると実に多くのNGOがアフガン復興のために力を注いでいることが分かる。何が支援で何が復興で、何をしたら「みんなが私達を助けてくれた」とアフガンの人々が言ってくれるのか、僕には分からなかった。あらゆる知識人や教養のある人々が、今のアフガンには「学校が必要」と言っているが、学校を建てれば飢えに苦しむ人々は「食べ物を」、と言うだろうし、だからといって食べ物を与え続けていれば、彼・彼女らは自分達で考える力、自立する力をなくしてしまうだろう。
「AID is AIDS」という言葉が南アフリカでよく言われたように、必要以上の支援は、彼らの免疫力を奪ってしまう。「苦しい、助けて」という言葉に触発されて食べ物を渡し続けているだけでは、彼・彼女らは「『苦しい、助けて』と外国人に言うこと」が仕事になってしまう。
「マイナスをゼロに戻す」
パキスタンのクエッタで出会ったハザラ人と色々な話しをしていて、彼は今後のアフガンについての話をしている時に、「人々の関心はもうイラクだから」とあきらめたような表情で僕らに笑いかけた。実際このままでは、きっと数年後にはアフガンは忘れ去られてしまうのだろう。そこで戦争が起きたことなど昔の話になり、そこでアメリカが何を行ったのか、先進諸国がアフガンの民間人をどれだけ殺したのか、日本はそこでどういう役割を担ったのか、誰が救われ、誰が殺されたのか、「誰のための自由」を守り、「誰のための正義」を振りかざしたのか、といった事は暗闇に捨てられて、アフガンがそれ以後どれだけ復興したのか、アメリカが行った爆撃はアフガンの平和のためにどれだけ必要だったのか、ということばかりが流されるのだろう。
そうしないためにも、僕は彼らの声をもっと聞かなければならない。冒頭で、「アフガンは知れば知るほど分からなくなる」と書いたが、1度や2度足を運んだだけでは、少しの人間と話しをしただけでは、分からなくて当たり前だと痛感する。そして、「そこにいる人々が」必要とする場所に緊急支援を、必要とされる場所に継続的な支援を、必要な場所には学校を、と顔の見える支援こそが必要なんだ、と思った。今回一緒に戦争被害調査に同行した方から、「私達はマイナスをゼロに戻すだけでいい」という言葉を聞いた。この言葉はとてもシンプルで、全てを表していると思う。今必要なのは支援ではなく、彼らが本当に必要な物が何なのかを、国際社会が理解することである。誤爆で殺された人々の補償であったり、山岳部のなかなか支援が届かない地域に支援を届けることであったりと形態は様々だろう。押しつけではない、顔が見えるだけではない、声の聞こえる支援が今、必要とされている。
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