単身パキスタンでアフガン難民支援を行った松本剛一さんインタビュー

放っておけば倒れるような人に
巡航ミサイル・クラスター爆弾はないやろ!

たった1人でもこれだけできたアフガン難民支援ボランティア

2002年 1月15日
通巻 1098号

 自己資金250万円を投げだし、たった1人でアフガン難民支援の旅に出た人がいると聞き、話を聞きに出かけた。松本剛一インタビューに答える松本剛一さんさん(42歳)は、北巣本保育園(門真市)の理事。子どもたちと一緒に無農薬有機野菜を作り、地元の在日外国人を招いて、園児たちとの交流保育をする。松本さんは、食料20トン、毛布200枚を現地調達、パキスタン内のアフガン難民へ支援物資を直接手渡した。「たった1人でもこれ程の援助はできる。日本政府は難民支援に徹すべきだし、難民支援ならば、自衛隊よりも民間の方がよほど効率的」と語る松本さん。まず、動機から伺った。
(編集部)

テロと無関係な人が殺される!
 アフガニスタンに向かったのは、なんと言っても「殺すな」ということです。アメリカの空爆によって一般市民だけでも1000人以上は殺されていると思いますが、彼らはニューヨーク・WTCへのテロとは全く何の関わりもありません。米政府は、テロの主犯であるオサマ・ビンラディンを捕まえることを口実に空爆をしていますが、今アフガンで行われている空爆こそが大量殺戮そのものだし、国家テロだと思います。もっと言うならば、テロリストよりも狡猾だとも言えます。なぜなら、米軍はハイテク兵器を使って自分たちは安全な所にいて、アフガン人同士を殺し合いさせているのですから。
 私は、今回のテロ犠牲者やその家族の方々は気の毒だと心の底から思っています。しかし、WTCビルにはたくさんの花束が手向けられ、12月には世界中で追悼行事が行われたようですが、「報復攻撃やめろ」という声は、なかなか盛り上がりませんでした。
 私はテロを許せないし当然テロリストの側にはつきませんが、同時にアメリカの側にもつきません、ということをこの身で示したかったのです。今も空爆され、飢えと寒さに苦しむアフガニスタンの人々にナンの1切れ、毛布の1枚でも自分の手で直接手渡したいと思ったのが動機です。
 もともとアフガニスタンの幼児死亡率は25%を越え、平均寿命は42才を下回っているという国連の統計もあります。放っとけば倒れるような人々に向かって巡航ミサイルは酷すぎます。その後もクラスター爆弾やデイジーカッターという大量殺人兵器が、まるで兵器見本市のように使われました。
 私1人が行ったところで、「焼け石に水」にもならないことは百も承知しているのですが、ごまめの歯軋りと言いますか、とにかく何か行動したかったのです。

22トンの食料援助
 11月12日にパキスタン入りしました。翌日がカブール陥落という緊迫した情勢でした。イスラマバードのアフガニスタン大使館パキスタンのアフガン難民キャンプで食料を配っている様子でビザの申請をしたのですが、ジャーナリストでもビザがおりない状況で、ビザは困難とわかりました。そこで通訳兼ドライバーを見つけ、とりあえずペシャワールに行きました。
 この町は国境沿いで、近くに難民キャンプがたくさんありましたので、「アフガン難民委員会」に許可申請しました。というのは、許可が出ると警備ののお巡りさんが付くからです。ここでも「お役所仕事」に悩まされましたが、やっと3日目に許可をもらいました。
 すぐに、食料(小麦粉16トン、食用油2トン、砂糖2.4トン、紅茶800キロ、小豆アフガン難民キャンプの子どもたち800キロ、合計22トン)を1万ドルで買い込みました。
 トラック3台分の食料ですが、これを何万人もいるような大きなキャンプに持っていってもかえって混乱するので、ペシャワール近郊の比較的小さなキャンプ=アル・ハジザイキャンプを紹介してもらいました。
 事前に家族ごとの配給チケットを配っていただき、そのチケットと引き替えで食料を配りました。小麦20キロ、砂糖3キロ、食用油2.5キロ、お茶1キロ、小豆1キロを1セットにして、800セット配ることができました。
 印象的だったのは子どもたちの表情です。子供たちは、ゴミ拾いをしたり、ものもらいをしている子もいるようでしたが、表情は意外と明るいものでした。

路 上 生 活 者
 これで実績もできましたので、「これと同じことをアフガニスタン領内でやりたい」と再度ビザを申請しましたが、安全が保証できないという理由で、許可はおりませんでした。当時は、ジャララバードとカブールを結ぶ陸路でジャーナリストが連日殺されていましたから、私も危険だと判断して、イスラマバードに戻り、路上生活者の難民に毛布200枚を送ることにしました。
難民キャンプの様子 路上生活難民は近くの商店主らが協力して面倒を見ているという話でしたが、女性・子どもばかりなので、「未亡人なのか? 」と聞くと、「男たちは、別の場所で避難生活をしている」とのことでした。イスラムの慣習の中では、人の目に触れる家の外では、たとえ家族といえども男女がいっしょにいることはできないそうです。
 その後、通訳をやってくれた人の家族が福祉基金を元にした学校を運営していると聞きましたので、私の友人・知人から預かった救援資金を寄付しました。彼らは敬虔なクリスチャンで、私財を投じて福祉基金を創り学校を設立したそうです。学校は午前と午後の2部制で、午前の部の生徒は60人くらいでした。うち30人くらいはアフガン難民の子どもたちだそうです。
 これが支援活動の概要です。12月3日に帰国しましたので、22日間の活動でした。

あちこちにビン・ラディンの肖像画が室内にはビン・ラディンのポスターが
 私が会ったパキスタン人の9割は、タリバンを支持していました。というのは、そもそもソ連軍のアフガン侵攻の際、ソ連に対抗させるためにタリバンを含むムジャヒディン(イスラム戦士)を育てたのはアメリカだし、また、革命イランに対抗させるためにサダムフセインを援助し、イラクを軍事大国にしたのもアメリカです。米政府のその時々の場当たり的な外交政策の失敗が今回の被害を生んだのに、なぜアフガンの人が殺されなければならないのかという主張です。実際、あちこちにビンラディンの写真が貼られていました。
 日本については、広島・長崎に原爆を落とされていながら、なぜアメリカの側に味方するのかという質問を多く浴びました。もともと日本に対しては、アジアの小国が戦争で廃墟となりながら戦後見事な復興を成し遂げたということで、とても高い評価を得ていたのですが、米軍側に付いたことで大きな疑問を呼び起こしているようです。

飢えた人々の声は届いているのか
 12月3日帰国したのですが、街ではあちこちでクリスマスのイルミネーションが輝き、人々は幸福そうに見えました。アフガニスタンとはあまりに違う風景に、大きな違和感を感じました。皆さんにお願いしたいのは、忘れないということです。今も苦しんでいるアフガンの犠牲者、そしてテロの犠牲者とその家族の心の痛みを忘れてはいけないと思います。
 2つ目は、パレスチナ問題です。今回のテロの背景は何かということを考えてほしいと思います。自らの命を捨て、たくさんの人を巻き添えにしてまでしなければならなかった理由と背景です。パレスチナ問題が解決しないかぎり、第2第3のビンラディンが出てくると思います。南北格差はいつまでたっても解決しないばかりか、むしろ拡大しています。日本にも優秀なNGOがたくさんあります。是非連絡を取ってもらって、活動を支えてあげてほしいと思います。
 3つ目は、日本政府の対応です。小泉首相は、テロ直後米政府に対して「何でもします」との声明を発表し、後方支援として補給艦派遣まで行いました。一方、10月初旬には自衛隊機C―130輸送機を6機連ねて、片道4日もかけて支援物資を送りました。この輸送に隊員140名を使ったと聞いています。相当な経費=税金がかかっているはずです。ところが届けた支援物資はほんのわずかです。テント315張り、毛布200枚、水タンク400個!です。タンクといえばほとんど空気を運んだも同然です。国会でも追及されたようですが、納税者の1人としても、こういう税金の使い方はやめてほしいと思います。
 また、海上自衛隊は船を仕立てて行ったにもかかわらず、テント・毛布合わせてわずか200トンあまりだそうです。私は1人で行って、20トンほどの食料と毛布200枚を援助してきました。私の渡航費用まで含めた一切合切の費用は200万円くらいです。どちらが効率的なのでしょうか 小泉さんが私に1億円でも預けてくれるのなら、トラック100台でも連ねてカブールまで行きます。
 政府は「ショー・ザ・フラッグ」のためだけにこんなことをしているのですが、もう1つは目くらましのためです。自衛隊は米艦船に燃料補給しているわけですから、どこから見ても戦闘行為を行っています。明らかな憲法違反です。これを見えなくさせるための「難民支援」だと思います。いずれにせよ難民援助に関しては、自衛隊よりも民間の方がよほど効率的であることは間違いありません。
 最後に、読者のみなさんに考えていただきたいことがあります。日本の家庭が1年間に捨てている食べ残しの量は、アフガンの人々が食べる穀物の3年分の重さと同じになる計算だそうです。栄養不足の人たちは全世界で8億3千万人にのぼり、このうち援助の手が届いているのは2億人にすぎないとのこと。彼らの声が日本人の耳に届いているのでしょうか 


インタビューを終えて
 松本さんが今回一番うれしかったのは、園児たちの反応だそうだ。簡単な説明をして日本を出発したそうだが、「アフガンの人たちに食べ物を運んでくれてありがとう」という手紙をくれた園児や、地球儀を見て「先生今どの辺?」と母親に聞いていた子もいたそうだ。「これだけでも身体張って行った甲斐はありました」と締め括ってくれた。

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