編集部からの問題提起に応えて

人民新聞のみなさんへ

再び11月8日を迎えて/重信房子 

2001年 11月25日
通巻 1094号

 逮捕から1年目の11月8日を迎えています。逮捕のときのこと、それ以降のあり方など、考えると、1年たった今もくやしさや申し訳なさや、当時の時間と感覚の中に戻されそうになります。私の逮捕以来、弾圧、逮捕、捜索と、人民新聞のみなさん、また、友とすべき見ず知らずの方々にまで、被害を拡大させてしまったことを、あらためて謝罪します。
 6月15日号の人民新聞津林編集長の批判提起を7月6日に読み、そのまま7月6日付で自己批判を込めて、とりあえずの返事を書きましたが、掲載されずに今日に至ってしまいました(近頃判ったのですが、実務手違いとのことでした。事情はわかりません)。7月6日付けで、提起した点は、次のような内容です(批判を無視していたようで心苦しいので、内容不十分ですが、そのまままた出します)。
多くの人々に被害をもたらしたことを謝罪します
 私の不用意な逮捕に始まる一連の事態は、人民新聞のみなさんを含め、多くの人々や運動に、弾圧と被害をもたらしたことをまず謝罪します。
 貴紙が批判されている点は、私や獄外で表明すべき人々からの総括が立ち遅れている結果、疑問、批判として提起されています。味方の1人として、共に変革を担う者として、絶対変わってほしいと、心を込めて、批判されていることが判ります。私たちは、1970年代の、未熟なさまざまな闘い方を教訓として、1977年「5・30声明」をもって、新しい出発としました。その頃、国内でも、人民新聞の方々など、新旧左翼の、これまでのあり方を止揚し、党派主義を超えたものを作ろうとしていました。こうした5・30声明を結ぶ縁で、いつも私たちと関連づけられ、人民新聞ははるか20年以上も前から弾圧を受け続けました。公安当局への怒りとともに、私自身の活動が再び弾圧を作り出したことを謝罪します。
 現在、公判開始から、2ヵ月が過ぎ、独房の情報時差のもとで、言葉を選び、事実にふれないまましか書けないことを承知で、貴紙の批判に何か応えねばと思いました。その中途半端さは、具体的問題から総括を求める貴紙の趣旨を損ない、更なる疑問、批判をうむかもしれませんが、やむをえないと思いつつ、批判に応えるべきだと筆をとりました。

1 大衆運動を「隠れ蓑」としてしか考えない旧態依然たるあり方
 これは、実在の患者さんの名義を使ったことについて、私(たち)のあり方に深刻な不信として提出されています。どのような事情があったにせよ、言い訳の許されない誤りです。弱者の人権を守る立場の者が、政治目的、自分の延命のために患者さんを利用し、踏みにじったことを、まず謝罪します。公判との関連もあり、具体的なことは言えないのですが、私自身の責任であり、弱者を踏みつけにしてなりたっている自分に無自覚であったことを恥ずかしく思います。
 今、反省を込めて言えることは、やはり、一般論に返してしまうことになりますが、人民を援助する党≠ニ言いつつ、人民の上に自らを置いて行動している姿であり、批判されて当然の姿です。「金がない」とか、「身分証がない」のを、どう解決するか  非合法状態にある身内を「同志」だからと救おうとする結果、他をないがしろにしてきた現実があります。同志を第一に人民や人々に多少、害が出てもかまわない、または「致し方なし」とする、1970年代から私自身、日本の党派活動の中でもっていた姿であり、人民性のない闘い方もよしとしてきた姿がそこにあります。
 私自身、何十年の活動の中で何度か直面し、問われた問題です。人民よりも同志や自分を第1に置く苦い選択を何度か、「致し方なし」としたこともありました。軍事的なことに限らず、生存は常にそういうところで問われながら来た分、反省するはしから自己肯定し、「仕方ない」と思ってしまう自分との思想闘争でもありました。
 人民のために≠ニしているつもりが、身内(党)の利害が中心であったこと、党としての役割を「党のために」の利害を中心にしたこと。そして、それに自覚的でなかったこともあります。それはきまって、自らが弱いとき、「窮状に陥ったとき」でしたし、そのときこそ思想性が問われました。今回、批判されている点を受けとめながら、私自身のあり方と同時に、言ってきたことの、はがれた実体を問い返していきます。
 人民原理にたち、党の無謬性を否定するところから再スタートした私たちは、非合法化された存在条件に制約され、人々に見えず、隠れたままにあり、人々の批判や質問を受けない分、口先だけになったり、自己肯定したり、自己点検しきれずに現在の敗北に至った点を思想的にも路線的にも、とらえ返していこうと思います。

2 膨大な押収資料を保持していた点、自己批判として捉えています
 さまざまな悪条件が重なった結果とはいえ、「いつやられても良い」ような活動原則を逸脱していたからです。当初の「緻密な」活動スタイルが、時間がたつにつれ、日本での政治研究や分析などの活動の合法性に私自身が埋没していったからです。結果的には、自分にやりやすい活動スタイルにしていたことによります。毎日の処分より、自分の多忙さにあわせて定期的に処分するとか、根拠のない自信を持ち、「大丈夫」と日々、市民的生活になれていくほどに、保安を甘くしていった結果と言えます。
 また、客観的にみて力量の未成熟に要因があったという点もあります。私を支援、守る力量が育っていたわけではありません。こうした条件下、頻繁な往来やスケジュールを急ぐあり方は、全体の発展を破壊したと考えています。私自身の活動が、他の人々を助けている「つもり」で個人的にかかえこみ、その分、被害も拡大してしまいました。私自身、さまざまな政治理論を学習していたので、その資料などを持っていたということ事態が運動への弾圧の口実にさせてしまいました(人民新聞ももっていました)。
 自らが犯した失敗の結果、味方総体の運動、同志友人に計り知れない困難をもたらしていました。このダメージから教訓として言えることは、月並みなことかもしれませんが、先にも述べた、思想的に人々を守るという意識に裏打ちされた、また実力以上のスケジュールや目標が原則や余裕を損なっていました。実体に沿った活動のあり方を教訓としていきます。

3 『「組織」「共同性」のありようについて』批判しています
 どの組織も、さまざまな機会に組織としての見解を表明することが問われます。志を一致し、規約に基づいて結集している以上、党組織や、政治団体が、その成員の行状に対して、見解を表明することが当然であり、ない方が不思議と言えるかもしれません。
 日本赤軍の獄中の同志たちは、国内実践の経験が数十年ないという特殊な条件で、逮捕、拘留されてきました。何が起こったか判らない条件で、さまざまな批判、意見表明は、獄中同志間では行われていたようです。その中で、公表される文書が、批判されているような「励まし」にならざるをえない側面が当時あったと思います。獄外の組織見解という柱があって、獄中は呼応しえると思います。その点、個人なら、もっと自由に自己の責任において発言しやすかったでしょう。私自身の自己批判としても、問題だと思うのは私の逮捕後、また解散表明に至るまで、「組織として」見解表明できなかったことです。そしてまた、解散表明自体を獄中の私が担ったというあり方に至った点です。私の逮捕・押収による弾圧という条件で、「引き受けきれない」ことになったのだと思います。「地下党」の限界もあって、組織的見解の表明を獄中の私がやらざるを得なかったことが解散問題をいろいろ混乱させました。そこに組織としての「力量」が示されました。
 不十分な形であれ5・30声明で、組織として解散を表明した今、旧日本赤軍の同志や友人たちとともに、これまでの総括と教訓を発展させるよう、獄中からとらえ返していきます。現時点では、書きたいことの何分の1も書けていませんが、指摘された点に、こういう形でも答えていくことが、何も書かないよりはよいだろうと判断した次第です。貴紙の発展を謝罪と感謝とともに連帯のあいさつとして送ります。 


教訓と反省を返しつつこれからも進みます
 以上が、7月6日に出したものでした。
 それ以降、9・11アメリカ中枢無差別テロ、報復戦争と、世界のめまぐるしい動きがあり、それに対する意見表明など、公判の内外でしたので、その点は略し、別の機会にゆだねます。
 言えることは、「9・11で世界は根本的に変わった」という人々が、旧来の頭で、新しい戦争と支配を言いたてている危険な姿が見えます。キッシンジャーは言っています。「賢者たちが何百年も説いてきた世界共同体が、テロリストの手で、実現されるとすれば大きな皮肉だ。」「世界秩序の概念の革命的な変化に向かっている」として、反テロの名において、世界が「例のないグローバルな政治システムに近づいている。私自身もこれまで、伝統的な勢力均衡を論じてきたが、手を携えて立ち向かうべき共通の課題を前にして、世界はその勢力均衡をも超越しかけている。大きな悲劇が圧倒的な好機をもたらしている」として、ソ連東欧崩壊以降の世界秩序形成の失敗を、ポスト冷戦として、資本主義の管理統制の強化としてのグローバル化を「反テロ」の名で、反米勢力の一掃としてすすめようとしています。呼応する大きな国家は、それぞれの反体制勢力を、そのロジックの中で、共通に解体する軍事同盟の国益連合として、つき進もうとしています。武器や情報やシステムは新しいけれども、報復戦争を求めるその担い手たちは、旧い冷戦思考「力の支配」によって、21世紀を戦争と文明の対決へと導こうとしています。
 多様な文明を認め、正義の多様さを認め、多様性の中にこそ共生可能なグローバルな21世紀の秩序を思考するときであることを、9月11日は許されざる悲しく悲惨な事件が教えた日だったと思います。
 今も、報復の戦争は続いています。世界の激動の中で私自身は、接見禁止という条件もあり、社会との物理的つながりは限られていますが、新しい圧倒的な世界の中の動きに立ち遅れないよう、教訓と反省を返しつつ学び学びこれからも進みます。この1年のみなさまの励ましに、謝罪とともに、感謝と連帯を表明します。

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